身体に何か不調がある。
病院へ行く。
検査を受ける。
でも、原因がわからない。
別の病院へ行っても、はっきりしない。
そんな状態がしばらく続いたあと、ある日ようやく病名がつく。
もちろん、病気だったこと自体は嬉しいことではありません。
それでも、
「原因がわかってよかった」
「病名がついて、少し安心した」
そんな感覚が生まれることがあります。
考えてみれば、不思議です。
昨日より健康になったわけではありません。
むしろ昨日まで曖昧だったものが、「病気です」と確定しただけです。
それなのに、少しだけほっとする。
なぜなのでしょう。
もしかすると人は、悪い現実そのものより、
何が起きているのかわからない状態
に弱いのかもしれません。
- 正体不明の不安には「境界」がない
- 人は「わからない空白」を想像で埋め始める
- 原因不明のまま放置すると「自分」まで疑い始める
- 病名という「名前」が、「自分」と「問題」を切り離す
- 名前がつくことで、宙に浮いていた「感情の行き先」ができる
- だから「説明」は人は「良い未来の約束」ではなく「説明」で安心する安心になる
- 正確さより安心感――断言や陰謀論に惹かれる心理
- 現代特有の「正体不明」を作るネットとAI
- 不安で検索するほど可能性が増えていく「逆回転」
- AIは一般論を「自分専用のストーリー」に変えてしまう
- 「正しい答え」ではなく「安心できる説明」を探す自分
- 古代の呪術から見る「名づけること」の力
- 「答えのある世界」を求める自分に気づくこと
正体不明の不安には「境界」がない
原因がわからないと、どこまで心配すればいいのかもわかりません。
軽いものなのか。
このまま続くのか。
もっと悪くなるのか。
別の大きな病気が隠れているのか。
わからないということは、可能性が閉じないということでもあります。
一つの悪い現実なら、少なくともその大きさを見ようとすることはできます。
でも正体不明のものには、それがありません。
どこまで広がるのかわからない。
どこまで警戒すればいいのかわからない。
だから正体不明のものは、実際の大きさ以上に大きく感じられることがあります。
怖いのは「悪い可能性」だけではなく、
可能性を閉じることができないこと
なのかもしれません。
人は「わからない空白」を想像で埋め始める
さらに厄介なのは、人は「わからない」をそのまま置いておくのが、あまり得意ではないことです。
情報が足りないと、
「もしかしたら」
「ひょっとすると」
「自分の場合は……」
と、その空白を頭の中で埋め始めます。
本当はまだ何も起きていないのに、これから起きるかもしれないことまで考え始める。
そして一つの可能性を考えると、また別の可能性が浮かんでくる。
正体不明の状態が疲れるのは、答えがないからだけではないのでしょう。
答えのない空白を、自分の頭で埋め続けるから。
そこにも負担がありそうです。
原因不明のまま放置すると「自分」まで疑い始める
わからない状態が長く続くと、もう一つ厄介なことが起きます。
問題ではなく、自分の方を疑い始めることです。
「本当に具合が悪いのだろうか」
「自分が気にしすぎているだけではないか」
「こんなことでつらいと思う自分が弱いのではないか」
そんなふうに。
これは身体のことだけではありません。
誰かの態度が急によそよそしくなった。
理由はわからない。
そんなときも、
「何かしたかな」
「嫌われたのかな」
「自分に問題があるのかな」
と、自分の中に理由を探し始めることがあります。
つまり、正体不明という状態は、
世界の輪郭だけでなく、自分の輪郭まで少し曖昧にする
ことがあるのだと思います。
病名という「名前」が、「自分」と「問題」を切り離す
そこに名前がつきます。
「これは○○という病気です」
そう言われた瞬間、身体の状態そのものが変わるわけではありません。
でも見え方は変わります。
それまで、
「自分がおかしいのかもしれない」
と思っていたものが、
「自分は、この問題を抱えている」
に変わる。
これは似ているようで、かなり違います。
問題に名前がつくことで、自分と問題の間に少し距離ができる。
自分そのものがおかしいのではない。
自分の中に、対処しなければならない何かがある。
そう置き直せる。
名前というのは、ただの呼び名ではなく、
自分と問題を切り分ける線
にもなるのかもしれません。
名前がつくことで、宙に浮いていた「感情の行き先」ができる
正体がわからないとき、困るのは考え方だけではありません。
感情も宙に浮きます。
何を怖がればいいのか。
何を悲しめばいいのか。
何を受け入れればいいのか。
それすら定まりにくい。
でも対象が見えてくると、
「この病気が怖い」
「この結果が悲しい」
「これと付き合っていかなければならない」
と、感情にも向かう先ができます。
名前がつくと、世界に輪郭ができる。
輪郭ができると、感情にも行き先ができる。
そんなこともあるのだと思います。
人は必ずしも、良い結末だけを必要としているわけではないのかもしれません。
ときには、
結末があることそのもの
が必要になることもあります。
わからないままでは、悲しむことも、受け入れることも、うまく始められない。
そんなこともあるのでしょう。
だから「説明」は人は「良い未来の約束」ではなく「説明」で安心する安心になる
名前だけではありません。
「なぜこうなったのか」
という説明にも似た力があります。
原因がわかる。
仕組みがわかる。
次に何をすればいいかわかる。
すると世界は少しだけ予測できるものに戻ります。
安心とは、
「もう悪いことは起きません」
と約束されることだけではないのでしょう。
むしろ、
何に備えればいいのかわかること。
それだけでも、人は少し落ち着くことがあります。
正確さより安心感――断言や陰謀論に惹かれる心理
説明が安心を与える。
これは人間にとって、とても自然なことです。
ただ、ここには少し危ういところもあります。
誠実な専門家ほど、
「まだわかりません」
「いくつか可能性があります」
「もう少し調べる必要があります」
と言うことがあります。
一方で、
「原因はこれです」
と言い切る人もいる。
事実としては前者の方が誠実でも、不安の中にいる人にとっては、後者の方が魅力的に感じられることがあります。
なぜなら、後者は世界を早く閉じてくれるからです。
正確さと安心感は、必ずしも同じ方向を向いていない。
ここは少し厄介です。
占いや詐欺的な説明などが入り込む余地も、このあたりにあるのかもしれません。
「原因はこれです」
「このままだと危険です」
「でも、こうすれば大丈夫です」
そう言われると、世界は一気に整理されます。
人がそこに惹かれるのは、単に騙されやすいからではないのでしょう。
意味のわからない状態から、早く抜け出したい。
その気持ちが入口になることもあります。
現代特有の「正体不明」を作るネットとAI
今は、正体不明のものに出会ったとき、すぐに調べることができます。
身体に少し違和感がある。
症状を検索する。
すると、
よくある原因も、
少し珍しい病気も、
かなり稀な病気も、
同じ画面に出てきます。
もちろん、頻度や確率が書かれていることもあります。
それでも不安なときの人間にとって、
「検索して出てきた」
というだけで、その可能性が急に現実味を持つことがあります。
多くの人に当てはまる話も、
ほとんど当てはまらない話も、
文字としては同じ大きさで目の前に現れる。
ここには、少し厄介なところがあります。
不安で検索するほど可能性が増えていく「逆回転」
本来なら、
わからない。
だから調べる。
わかる。
そして安心する。
そんな流れを期待します。
ところが、ときどき逆のことが起こります。
わからない。
調べる。
知らなかった可能性を知る。
さらに調べる。
また新しい可能性が出てくる。
知識は増えているのに、世界の輪郭ははっきりしない。
むしろ可能性だけが増えていく。
これは、今の時代だからこそ起こりやすい「正体不明」の形なのかもしれません。
AIは一般論を「自分専用のストーリー」に変えてしまう
AIはさらに便利です。
検索は情報を並べます。
AIは、その情報をつないで説明してくれます。
こちらの質問に合わせて、
「こういう可能性があります」
「この場合は、こう考えられます」
と答えてくれる。
とても便利です。
しかも、それは必ずしも嘘ではありません。
でも、不安なときには少し注意が必要です。
一般的な可能性の話でも、
自分の質問に対して返ってくると、
自分専用の説明のように感じる
ことがあります。
AIは、人間が欲しがる
「説明のある世界」
を、とても簡単に作ってくれます。
だから便利なのです。
そして同じ理由で、少し危うくもあります。
「正しい答え」ではなく「安心できる説明」を探す自分
問題は、ネットやAIそのものではないのでしょう。
むしろ、
安心するために調べていた自分が、いつの間にか「安心できる説明」を探す自分に変わっていくこと。
そこにあるのだと思います。
検索を続ければ、いつか自分の不安にぴったり合う説明が見つかるかもしれない。
AIに何度も問い続ければ、
「これだ」
と思える答えに出会うかもしれない。
でも、そのとき自分が求めていたのは、
本当に正しい答えだったのか。
それとも、
安心できる答えだったのか。
この二つは、いつも同じとは限りません。
古代の呪術から見る「名づけること」の力
少し時代をさかのぼると、古代中国を中心に、実名をむやみに扱わない文化がありました。
名前は、今の私たちが考える単なる呼び札よりも、存在そのものに近い重みを持っていたとも言われます。
名前を知る。
名前を呼ぶ。
名前をつける。
そこには、そのものの正体に近づくような感覚があったのでしょう。
もちろん、古代の名前の禁忌と、現代の病名はまったく別の話です。
それでも、
名前がつくと、得体の知れないものが扱える対象になる。
そんな人間の感覚は、ずっと昔からどこかにあったのかもしれません。
「答えのある世界」を求める自分に気づくこと
人間は、わからないものを嫌います。
わからなければ未来を予測できない。
何に備えればいいのかわからない。
感情の置き場所も定まらない。
ときには、自分自身まで疑い始める。
だから名前をつけ、原因を探し、説明を求める。
それはとても自然なことだと思います。
ただ、今は少し事情が変わりました。
かつて問題だったのは、
答えが見つからないこと
でした。
今は、
答えがいくらでも見つかってしまうこと
も、問題になり得ます。
では、どうすればいいのか。
ここで簡単な答えを出してしまうのも、少し違う気がします。
ただ、
「自分はいま、正しい答えを探しているのか」
それとも、
「不安から逃れるために、安心できる答えを探しているのか」
その違いがあることを知っておく。
それだけでも、少し見え方は変わるかもしれません。
私たちは、真実を知りたいと思っています。
それは間違いない。
でもその少し手前で、
「何が起きているのかわかる世界」
を、とても強く求めている。
人間には、そんなところもあるのだと思います。
【読書を、もっと日常に】
本を読む時間がなかなか取れない方には、聴く読書「Amazon Audible」がおすすめです。通勤中や家事をしながら、効率よく知識や新しい視点をインプットできます。
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