時計の針が速くなったわけではありません。
一日は相変わらず二十四時間でした。
朝は朝のままで、夕方になれば日が沈み、夜になれば眠くなる。
世界は何一つ変わっていませんでした。
変わったのは、時間ではありません。
時間の見え方でした。
前回の記事では、「時間は使えば何かに姿を変える」ということを書きました。
仕事に使った時間は経験になり、読書に使った時間は知識になり、休むと決めて過ごした時間は回復になります。
だから、本当に消えてしまうのは、何も選ばないまま流れていった時間なのではないか。そんな見方です。
では、私はなぜ時間について、ここまで考えるようになったのか。
そのきっかけは、数年前に経験した消化器系の大病でした。
※本記事は、時間の使い方を描いた『使わなかった時間だけが、完全に消えていく。——時間の「選び方」を取り戻す話』(第1部)から続く、認知と人間OSを紐解く【第2部】です。
終着点が見えたのではない。終着点を「意識」した日
余命を告げられたわけではありません。
人生最後の日付が示されたわけでもありません。
それでも、大きな病気を告げられた瞬間から、それまでどこか遠くにあった「人生の終わり」が、急に自分の足元へ近づいてきたように感じました。
人はいずれ死ぬ。
そんなことは、それ以前から知っています。
けれど、知識として知っていることと、自分の時間として感じることは、まったく違います。
終着点が見えたのではありません。
終着点へ向かっている自分を、初めてはっきり意識したのです。
その頃は、自分に残されている時間を、とてもシビアに感じていました。
来年も今まで通り生活できるのだろうか。
家族と過ごす時間は、あとどれくらいあるのだろうか。
今日という一日が、急に特別な重さを持ち始めました。
結果として、私は運よくその時間を乗り切ることができました。
ここは少し強調しておきたいと思います。
私は病気に「勝った」とは思っていません。
医療との出会い。
身体の状態。
家族の支え。
そして運。
いろいろな条件が重なって、今日があります。
だから、「乗り越えた」というより、「運よく通り抜けることができた」という感覚の方が近いのです。
「人は、元に戻る」——忘れる力という人間の強さ
ところが、運よく日常へ戻ることができると、人は少しずつ元へ戻っていきます。
私もそうでした。
また先送りをする。
どうでもいいことで悩む。
明日も今日と同じように続く気がする。
あれほど強く意識していた終着点も、少しずつ日常の奥へしまわれていきました。
以前の私は、それを自分の弱さだと思っていました。
「せっかく病気を経験したのに、また元の自分に戻ってしまった。」
そう感じていたのです。
でも、今は少し違います。
あれは弱さだけではなかった。
人間の強さでもあったのではないか、と思うようになりました。
人は、人生の終着点を真正面から見続けることはできません。
もし毎日、「自分にも終わりがある」という事実だけを意識していたら、普通の生活は送れないでしょう。
だから少しずつ忘れる。
薄める。
日常の中へ戻っていく。
その鈍さ。
その呑気さ。
その少しのいい加減さ。
一見すると褒め言葉ではありません。
でも、その不格好な性質が、私たちの心を守ってくれているのではないでしょうか。
こういうものを「レジリエンス」と呼ぶのかもしれません。
ただ私は、それを特別に強い精神力とは思いません。
もっと人間臭いものです。
忘れっぽさ。
お気楽さ。
鈍感さ。
そんな少し情けないものまで含めて、人はまた日常へ戻っていく。
それが、人間という生き物なのだと思います。
人は「時間の長さ」ではなく、「残り時間」の感覚で動く
私たちは、時間そのものではなく、「残り時間」によって判断を変えています。
サッカーの試合もそうです。
前半開始直後の十分と、試合終了前の十分では、同じ十分でも意味が違います。
夏休みも、旅行も、本番を迎えるイベントも同じです。
時間の長さは変わらないのに、「あとどれくらい残っているか」が見えた瞬間、人は行動を変えます。
病気を経験したときも同じでした。
残り時間が分かったわけではありません。
それでも、「時間は無限ではない」ということだけが、急に現実になったのです。
私たちは、時間ではなく、「残り時間の感じ方」によって人生を選び直しているのかもしれません。
人生だけが「残り時間」を表示しない理由(人間への救いと錯覚)
サッカーには試合時間があります。
仕事には締切があります。
電車には時刻表があります。
終わりが見えるから、人は逆算できます。
でも、人生だけは違います。
残り時間が表示されません。
私は最近、このこと自体が、人間への優しさなのではないかと思うようになりました。
もし今日、「あなたの残り時間はあと○日です」と表示されていたら、私たちは穏やかに暮らせるでしょうか。
未来を楽しみにすることも、家族との何気ない夕食を味わうことも、難しくなるかもしれません。
終着点が見えないことには、意味があります。
一方で、その優しさは、
「また今度。」
「いつか。」
「落ち着いたら。」
という先送りも生みます。
終着点が見えないことは、人間への救いであると同時に、「まだある」という錯覚も生み出しているのです。
「明日も同じ日常が続く」と錯覚するのは、人間OSの仕様
私たちは、今の状態がそのまま続くように感じます。
健康なら、明日も健康だと思う。
家族が元気なら、その日常が続くと思う。
仕事が順調なら、その流れが続くように思う。
相場も同じです。
上昇が続いているときほど、その流れは永遠に続くような錯覚を覚えます。
でも、その流れを作っているのは、自分ではありません。
健康も。
相場も。
人生も。
自分の努力だけで成り立っているわけではありません。
環境もあります。
偶然もあります。
運もあります。
それでも人は、「今が続く」と考えます。
それは意思が弱いからではありません。
毎日すべてを疑いながら生きていては、人は疲れ果ててしまうからです。
脳は、今日の延長線上に明日を置くことで、安心して暮らせるようにしているのでしょう。
だから先送りする自分を責める前に、「人間はそういう仕様なのだ」と知ることが大切なのだと思います。
深い霧の山道を歩くように——「ここまでで十分だ」と手放す勇気
相場を長く見ていると、利益が出ているときほど難しいことを実感します。
損失なら、「ここで損切りをする」という基準は比較的作りやすい。
もちろん、実際に行動できるかどうかは別ですが、「ここまで」という線は引きやすいものです。
一方で利益が出ているときは違います。
まだ上がるかもしれない。
このトレンドは続くかもしれない。
そう考えているうちに、利益の多くを失ってしまうことがあります。
そんなときに読んだ、一つの考え方が今でも印象に残っています。
深い霧に覆われた山道を登っていると思いなさい。
霧の向こうには、まだ緩やかな登りが続いているかもしれません。
今いる場所が、その山の頂上かもしれない。
けれど、そのもう一歩先が谷になっているかもしれません。
その先に何があるのかは、自分には見えません。
そして、その山道を作っているのは、自分ではありません。
だから、「ここまでで十分だ」と思ったところで立ち止まる。
その判断しか、自分にはできないのです。
私は、この話は人生にもよく似ていると思います。
健康も。
仕事も。
家族との時間も。
今の穏やかな日常も。
その先に何が待っているのかは、誰にも分かりません。
だから有限性とは、「もっと先へ行け」という命令ではないのでしょう。
むしろ、
「ここまでで十分だ。」
「これはもう手放していい。」
そうやって、自分なりの区切りを決める勇気なのだと思います。
人生が有限だからといって、すべてを経験する必要はありません。
全部を手に入れる必要もありません。
限られているからこそ、自分にとって本当に大切なものを選び、それ以外を静かに手放していく。
それもまた、終着点を意識することの意味なのだと思います。
おわりに:今日という時間を、もう一度「選び直す」ために
人生の終着点は見えません。
私も、自分が今どこまで来ているのかは分かりません。
だから、毎日を最後の日のように生きる必要もないのでしょう。
そんな緊張を、人は長く抱えてはいられません。
人は忘れます。
私も忘れます。
また明日も、どうでもいいことで悩むでしょう。
それでいいのだと思います。
ただ、ときどき思い出せばいい。
人生には終着点があること。
今日という時間は、また戻ってこないこと。
そして、自分にはまだ、この時間を何に変えるかを選ぶ自由が残されていること。
終着点を意識するのは、死を恐れるためではありません。
今日という時間を、もう一度、自分で選び直すためです。
人生とは、案外その繰り返しなのかもしれません。
「ここまでで十分だ」と引き際を決める難しさや、自分の思い通りにならない世界で「自分の選択だけをコントロールする」という姿勢。
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