「運が良かった」
「今回は、ついていなかった」
私たちは普段、かなり気軽に「運」という言葉を使っています。
でも、人生という少し長い時間で考えてみると、この「運」というものは、思っている以上に大きい気がします。
生まれた時代。
出会った人。
仕事。
健康。
病気。
たまたま居合わせた場所。
偶然目にした言葉。
もちろん、自分で選んだこともたくさんあります。
けれど、どう考えても自分では選んでいないことも、かなり多い。
今回は、運を良くする方法を書きたいわけではありません。
「運を信じれば人生がうまくいく」という話でもありません。
ただ、
人生には運が混ざっているとして、それをどう考えておくと少し見え方が変わるのか。
そんなことを考えてみたいと思います。
人生の成功と失敗を、すべて「自分の実力」で説明できるのか
何かがうまくいったとき、人はそれなりの理由を考えます。
努力した。
判断が良かった。
能力があった。
もちろん、それはあると思います。
でも、もう少し引いて見てみると、それだけでは説明できないものもあります。
その能力を持って生まれたこと。
その能力が評価される時代だったこと。
良い人に出会ったこと。
たまたま必要な情報を知ったこと。
その場所に、そのタイミングでいたこと。
そこまで全部、自分で用意したとは言いにくい。
マイケル・サンデルの『実力も運のうち』には、能力主義に対する問いがあります。
成功をすべて、その人自身の実力だけで説明していいのだろうか。
私はこの問いが結構好きです。
成功したときに、
「全部、自分の力でここまで来た」
と思わなくてもいい。
そして、その逆もあると思います。
失敗したときに、
「全部、自分が悪かった」
と思わなくてもいい。
成功にも失敗にも、本人の努力とは別のものが混ざっている。
それを、ひとまず「運」と呼んでおいてもいいのではないかと思います。
なぜ人間は、出来事の後から「原因」を作りたくなるのか
行動経済学や認知心理学には、人間が結果をどのように受け止めるのかを考える概念がいくつもあります。
後知恵バイアス。
結果バイアス。
自己奉仕バイアス。
コントロール幻想。
言葉だけを並べると難しそうですが、ざっくり言えば、
人間は、結果が分かったあとで、その理由を分かりやすい物語にしたがる。
ということでもあります。
うまくいけば、
「あの判断が正しかった」
と思う。
失敗すれば、
「あそこが原因だった」
と思う。
でも、現実はもう少し複雑です。
自分の判断もある。
相手の判断もある。
環境もある。
タイミングもある。
偶然もある。
人生の出来事は、いろいろなものが混ざって起きています。
だから私は、
「運」という言葉を少し残しておくと、人生を単純化しすぎずに済むのではないか。
そんなふうに考えています。
病気や不運と向き合うとき、「運」という言葉をどう使うか
これは少し個人的な話です。
私はこれまでに、大きな病気を二度経験しています。
病気になったこと自体は、どう考えても運が悪かった。
でも、その中にも別の運がありました。
腫瘍が良性なのか悪性なのか。
どこにできているのか。
手術できる場所にあるのか。
手術できる時期に見つかるのか。
治療できる状態なのか。
こういうものは、本人が努力して決められることではありません。
私の場合で言えば、
病気になったことは運が悪かった。
でも、手術できる状態で見つかり、治療できたことは運が良かった。
そう感じています。
不運の中に、運の良さが混ざっている。
ひとつの出来事の中に、両方がある。
ただ、これは強くは言えません。
治療法がない病気もあります。
手術できないこともある。
発見された時点で、かなり厳しい状況の人もいる。
事故や難病のように、避けようのない出来事もあります。
だから私は、
「不運の中にも必ず幸運がある」
とは言えません。
「病気にも意味がある」
とも言いたくありません。
それは、外から簡単に言っていい言葉ではないと思っています。
私自身は自分の経験を振り返って、運という言葉を使うことができます。
でも、
運は、自分の人生を眺めるためには使えても、他人の人生を評価するためには使わない。
そのくらいの線は引いておきたいと思っています。
「幸運か不運か」は、時間が経たないと分からない
運というと、その場ですぐ判定できるものを考えがちです。
当たった。
外れた。
成功した。
失敗した。
でも、人生にはすぐには判定できない出来事もあります。
入れなかった会社。
終わった人間関係。
予定変更。
仕事の失敗。
病気。
たまたま読んだ本。
偶然出会った人。
そのときには、
「最悪だった」
と思ったことでも、
何年か経って振り返ると、
「あれがなかったら、今ここにはいなかったな」
と思うことがあります。
反対に、そのときは幸運だと思っていたことが、後から違って見えることもあります。
となると、
運には、時間が経たないと正体が分からないものがある。
そう考えることもできます。
不運だった。
幸運だった。
そうすぐに判定しなくてもいい。
少し保留にしておく。
人生には、そのくらい曖昧な場所があってもいいのではないかと思います。
セレンディピティ|偶然の出来事を価値に変える視点
ここで少し面白い言葉があります。
セレンディピティ。
偶然の出来事や出会いから、思いがけない価値を見つけることを表す言葉です。
よく「幸運をつかむ力」のように紹介されることもありますが、私はもう少し静かに考えるほうが好きです。
たまたま読んだ本。
昔やっていた仕事。
関係ないと思っていた趣味。
失敗した経験。
誰かとの雑談。
その瞬間には、何の意味もなかった。
でも後になって、それが別の何かとつながることがある。
偶然そのものを、自分が作ったわけではありません。
でも、自分の中に残っていた何かと、偶然が結びつく。
そういうことは、確かにあります。
今日の努力は、未来の偶然と結びつく「材料」になる
ここまで書くと、
「では運をつかむために、毎日努力しましょう」
という話になりそうです。
でも、私はあまりそこまで言いたくありません。
今日やっていることが、何につながるのかは分からない。
本を読む。
仕事をする。
文章を書く。
誰かと話す。
身体を整える。
新しい場所へ行く。
そのすべてが、何かになるわけではありません。
何にもならないことだってある。
でも、たまに何かとつながる。
それでいいのだと思います。
私は以前、
「今の自分が、未来の自分に小さな贈り物を置いておく」
ということを考えたことがあります。
今日やったことが、そのまま未来の結果になるわけではない。
でも、未来の偶然が使える材料にはなるかもしれない。
そう考えると、
努力は未来を決めるものではなく、未来の偶然と結びつく材料を少し置いておくことなのかもしれません。
私はこのくらいの考え方が好きです。
運を認めることは、人生を「運任せ」にすることではない
では、人生に運があるのなら、何をしても同じなのか。
もちろん、そういうことではありません。
自分では選べないことはあります。
かなりあります。
でも、起きたあとに何をするか。
どちらへ進むか。
どう受け止めるか。
そこには、自分に戻せる部分もあります。
このあたりは、アドラー心理学の考え方にも少し似ています。
起きた出来事を全部コントロールすることはできない。
でも、自分の側で扱えることは残っている。
だから、
起きたことには運が混ざっている。
そのあとどうするかには、自分の側に残っているものもある。
このくらいでいいのだと思います。
「努力か、運か」の二項対立から抜け出す
「成功は努力か、運か」
という話になることがあります。
でも、そもそも二択にする必要がないのかもしれません。
努力しても運はある。
運があっても努力はある。
最初から、両方が人生の中に入っている。
努力は、結果を保証しません。
でも、何もしないより可能性を変えることはある。
そして、その先で何が起きるかは分からない。
だから私は、
努力は運を消さない。
運も努力を無意味にはしない。
そのくらいに考えておくのが、ちょうどいいと思っています。
結び|人生に「運」という余白を残して生きる
運について、何か正しい答えを出す必要はないのかもしれません。
運があるのか、ないのか。
どこまでが努力で、どこからが偶然なのか。
そんなことは、おそらく最後まで分かりません。
ただ、
自分の人生には、自分では決められないものも混ざっている。
そう考えておく。
うまくいかなかったとき。
「全部、自分のせいだったのかな」と思ったとき。
反対に、
「今回はずいぶんついていたな」
と思ったとき。
何かにすがりたいくらい、先が見えなくなったとき。
そんなときに、少しだけ思い出せればいい。
人生から運を消さない。
それくらいにしておくと、少し見え方が変わることがあります。
今日できることを少しやる。
その先を運がどうつないでいくのかは、まだ分からない。
人生は、そのくらい分からないままのほうが、少し面白いのかもしれません。
運について考えていると、最後はやはり「では、自分にできることは何か」というところへ戻ってきます。
思い通りにならないことがあっても、いったん自分の立ち位置へ戻る。
そんなときに私が大切にしているのが、「0地点」という考え方です。
運や結果に振り回されすぎず、自分がもう一度どこから始めるか。
その考え方を、noteの有料記事にまとめています。
「0地点という考え方|Re: Trader Log.127」
Re:Trader ─ トレードからはじまる行動と心理のノートをもっと見る
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