自己肯定感という言葉は、すっかり日常の言葉になりました。

「自己肯定感を高めましょう。」
「ありのままの自分を受け入れましょう。」

そんな言葉を目にする機会も少なくありません。

一般的には、自己肯定感とは「自分には価値があると思えること」「ありのままの自分を認められること」といった意味で使われることが多いでしょう。

もちろん、それはとても大切なことです。

けれど私は、自己肯定感について考えるたびに、一つだけ気になることがあります。

私たちは、本当に「自分だけ」を見て、自分を評価しているのでしょうか。

家族がいて、職場があり、友人がいて、学校があり、そして今はSNSがあります。

私たちは、たくさんの人との関わりの中で生きています。

励まされることもあれば、落ち込むこともある。

誰かに憧れ、誰かを目標にしながら、自分という存在を少しずつ形づくっていきます。

だから、自己肯定感と他人との比較は、完全に切り離して考えられるものではないのだと思います。

自己肯定感について調べると、「他人と比較しないこと」という助言をよく目にします。

確かに、その通りです。

SNSで誰かの華やかな暮らしを見続ければ、自分の人生まで色あせて見えてしまうことがあります。

友人の昇進や収入、家庭や趣味を比べ続ければ、「自分はまだ足りない」と感じてしまうこともあるでしょう。

だから、「比較しない方がいい」という言葉は間違ってはいません。

けれど、本当に比較は、いつでも悪いものなのでしょうか。

今日は、そのことについて少し考えてみたいと思います。

人はそもそも「比較する」ようにできている

私たちは、自分だけを見て現在地を知ることがあまり得意ではありません。

周囲の人を見ながら、

「自分はこのくらいの位置にいるのか。」

「もう少し頑張った方がいいかな。」

そんなふうに、自分の状態を確かめています。

これは、自己肯定感が低い人だけの話ではありません。

人間は長い時間を集団の中で暮らしてきました。

集団の中で自分がどんな立場にいるのか。

周囲とうまくやれているのか。

少し遅れていないか。

そうした感覚は、生き残るためにも必要だったのでしょう。

だから、他人と比較してしまうこと自体は、人間の自然な働きです。

「また比べてしまった。」

そう自分を責める必要はありません。

問題なのは、比較することそのものではなく、その比較が今の自分にどんな働きをしているかです。

比較が、静かに背中を押してくれることもある

比較には、人を苦しめる面があります。

けれど、その一方で、人を前へ動かしてくれる比較もあります。

学生時代、ライバルがいたから練習を続けられた。

職場で尊敬する先輩がいたから、新しい挑戦を始められた。

「あの人のようになりたい。」

そんな気持ちが、自分の背中を押してくれた経験は、多くの人にあるのではないでしょうか。

私にも似た経験があります。

どん底の『夜と霧』から学んだ「生きるための比較」

ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』は、それまでにも何度か読んだことがありました。

けれど、自分が病気になり、不安の中にいたときに読み返した『夜と霧』は、それまでとはまったく違う本のように感じられました。

同じ文章を読んでいるはずなのに、それまで通り過ぎていた場面で、足が止まるのです。

特に心に残ったのは、過酷な労働を終えた収容者たちが、空に沈む美しい夕日を見つめる場面でした。

極限状態に置かれ、人間としての尊厳さえ奪われかけている中で、それでもなお、美しいものに心を動かされる。

仲間の一人が、その景色に感動の言葉を漏らす場面があります。

私はその場面を読んだとき、「人間はここまで追い詰められても、美しいと思う心までは失わないのか」と深く心を動かされました。

読後に残ったのは、「自分よりもっと大変な人がいる」という感想ではありません。

「自分にも、まだできることがある。」

そんな、小さな希望でした。

心理学では、自分より厳しい状況にある人を知ることで、自分の状態を捉え直す心の働きを「下方比較」と説明することがあります。

少し冷たい響きのある言葉です。

けれど実際には、人は誰かを見下したいのではありません。

苦しいときだからこそ、誰かの人生を借りながら、自分の足元をもう一度確かめようとしているのです。

あのときの私にとって、『夜と霧』は比較するための本ではありませんでした。

もう一度、自分の足で立ち上がるための支えでした。

だから私は、比較をすべて悪いものだとは思いません。

人生には、比較が静かに背中を押してくれる時期もあるのです。

比較には、賞味期限があります

ただ、ここからが今日、一番伝えたいことです。

比較は、人を動かす燃料になることがあります。

けれど、その燃料は永遠には必要ありません。

最初は自分を前へ進めてくれた比較が、いつの間にか、自分を疲れさせるだけのものになっていることがあります。

食べ物に賞味期限があるように、比較にも役割を果たせる時期があります。

比較が悪いのではありません。

役割を終えた比較を、まだ必要なものだと思って持ち続けてしまうこと。

それが、少しずつ自己肯定感を削ってしまうことがあるのです。

燃料だった比較は、慣性へ変わる

比較は、ときに私たちを動かします。

けれど、目的を達成したあとも、比較だけが習慣として残ることがあります。

朝起きると、なんとなくSNSを開く。

誰かの評価や数字が気になる。

もう何かを始めるためではありません。

比較すること自体が慣性になっているのです。

自己肯定感を削っているのは、他人そのものではなく、この慣性なのかもしれません。

比較の正しい取扱説明書

だから私は、「比較をやめましょう」とは思いません。
ただ、何かと比較して苦しくなったときは、次の3つの問いを確かめてみてほしいのです。

1. その比較から「具体的な行動」が生まれているか?(努力する力、挑戦する勇気、自分を整えるきっかけになっているか)

2. 比較したあと、視野が「広がる」か「狭くなる」か?(自分の可能性に気づけるか、単に勝ち負けだけに囚われているか)

3. もう相手を見なくても、自分の足で進めるか?(他人の存在がなくても、自分の目的や習慣が育っているか)

具体的な行動や希望につながっているなら、その比較はまだ「燃料」として機能しています。
一方で、ただ落ち込むだけなら、その比較はすでに役目を終えているのかもしれません。

そして最後に、もう一つ。

よく言われることですが、「比べるなら昨日の自分と比べよう」という考え方があります。

使い古された言葉かもしれません。

それでも私は、いつの時代にもおさまりの良い考え方だと思っています。

昨日より少しだけ落ち着いて考えられた。

先月より少しだけ人に優しくできた。

去年の自分より、少しだけ視野が広くなった。

そんな比較は、自分を追い詰めるのではなく、自分の歩みを静かに確かめる時間になります。

人生が長くなるほど、一番付き合いやすい比較の相手は、やはり昨日の自分なのだと思います。

おわりに

自己肯定感とは、誰とも比べなくなることで育つものではないのかもしれません。

比較は、人間の自然な働きです。

だからこそ大切なのは、比較をなくすことではなく、比較との距離感を学ぶこと。

その比較は、今も自分を前へ進める燃料なのか。

それとも、役割を終えた慣性なのか。

その違いに気づけるようになると、他人を見る目は少し変わります。

そして、自分を見る目も、きっと少しだけ優しくなります。

自己肯定感という言葉は、ともすると「もっと自分を好きにならなければならない」という課題のように聞こえることがあります。

けれど、本当に目指したいのは、そんなことではないのかもしれません。

昨日の自分と比べて、ほんの少し前へ進めた。

少しだけ視野が広がった。

少しだけ人に優しくできた。

そんな小さな積み重ねを、自分で静かに認められること。

誰かより優れていることではなく、自分なりの歩みを信頼できること。

その感覚こそが、自己肯定感の土台になっていくのではないでしょうか。

人生には、誰かとの比較が必要な時期もあります。

その比較が背中を押してくれることもあります。

でも、長い時間をかけて最後に戻ってくる場所は、やはり「昨日の自分」なのだと思います。

今日の自分は、昨日よりほんの少し前へ進めただろうか。

その問いは、誰かに勝つための問いではありません。

自分の人生を、自分の足で歩いていることを確かめるための問いです。

自己肯定感とは、自分の価値を証明し続けることではなく、自分の歩みを信頼できる感覚なのかもしれません。

そして、その歩みを信頼できる人は、他人と比べることに振り回される時間も、少しずつ減っていくのでしょう。


追記:自分のペースを取り戻したい夜に

他人との比較で心が疲れてしまったときは、本を「読む」ことすらエネルギーが必要なときがあります。
そんなときは、耳から静かに言葉を入れていく「聴く読書(Audible)」がおすすめです。

今回記事の中で触れた『夜と霧』のほか、比較や焦りから心を解放してくれる『反応しない練習』などもラインナップされています。
自分を整えるBGM代わりに聴いてみてください。



Re:Trader ─ トレードからはじまる行動と心理のノートをもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。