「自分探し」という言葉には、少し不思議な響きがあります。

真面目な言葉として使われることもあれば、どこか揶揄するような文脈で使われることもあります。

どこかへ旅に出る。

会社を辞める。

環境を変える。

すると本当の自分が見つかる。

そんな話を聞くことがあります。

一方で、

「自分探しなんて意味がない」

という声もあります。

ふとこの言葉について考えていました。

これは何かを結論づける話ではありません。

自分探しという言葉を出発点にして、見えてきた景色を少し書いてみようと思います。

なぜ人は自分を探したくなるのだろう

進化心理学の本を読んでいると、人間という生き物はなかなか不思議です。

多くの動物は、生まれてから果たす役割がある程度決まっています。

しかし人間は違います。

どんな仕事をするのか。

どんな価値観で生きるのか。

誰と関わり、どんな人生を送るのか。

選択肢があまりにも多い。

だからこそ、

「自分は何者なのだろう」

という問いが生まれるのかもしれません。

考えてみれば、人間は子どもの頃からずっとそうです。

将来何になりたいのか。

何が向いているのか。

何が好きなのか。

私たちは人生の節目ごとに、似たような問いを繰り返しています。

そう考えると、自分探しは特別なことではなく、人間という生き物の仕様なのかもしれません。

ただ、少し別の見方もできます。

そもそも私たちは、「自分を探せる社会」に生きています。

昔の多くの時代では、生まれた場所や家業によって人生の選択肢はかなり決まっていました。

農家の子は農家に。

職人の子は職人に。

身分や共同体の中で生きることが当たり前だった時代も長く続いていました。

しかし現代は違います。

仕事も。

住む場所も。

学ぶことも。

ある程度は自分で選べる。

「何者になるか」を考える余地があります。

だから私たちは、

「自分は何者なのだろう」

という問いを持つことができます。

考えてみると、これは少し不思議なことです。

自分探しができるということは、裏を返せば、自分の可能性を選べる社会に生きているということでもあります。

だから自分探しを揶揄することは簡単ですが、その問いを持てること自体は、人間社会が長い時間をかけて手に入れた豊かさなのかもしれません。

本当の自分は存在するのだろうか

ただ、ここで少し不思議なことがあります。

学生時代の自分と今の自分は、かなり違います。

考え方も違う。

興味も違う。

大切にしていることも違う。

それでも私たちは、そのすべてを「自分」と呼びます。

認知科学には、自己とは脳が作る物語である、という考え方があります。

人間は過去の出来事をそのまま保存しているわけではなく、それらをつなぎ合わせて一つの人生として理解しています。

もしそうだとしたら、「本当の自分」というものはどこかに固定されて存在しているのでしょうか。

それとも、自分とは変化し続ける物語なのでしょうか。

このあたりから、自分探しという言葉が少し曖昧に見えてきます。

それでも環境を変える意味はある

だからといって、自分探しが無意味だとも思いません。

多くの人は経験的に知っているはずです。

環境が変わると、自分も少し変わる。

旅行に行った時。

山を歩いている時。

新しい仕事を始めた時。

普段とは違う人たちと関わった時。

いつもと違う自分が出てくることがあります。

山に登ったから突然「本当の自分」が見つかるわけではありません。

でも、普段の生活ではあまり顔を出さない自分が現れることはあります。

静かに歩き続ける自分。

知らない人と話している自分。

思ったより粘り強い自分。

思ったより臆病な自分。

そんな一面に気づくことがあります。

もしかすると、自分探しとは本当の自分を見つけることではなく、普段使っていない自分に出会うことなのかもしれません。

人は環境に適応している

私たちは思っている以上に環境に影響されています。

同じ仕事。

同じ人間関係。

同じ生活リズム。

同じ通勤路。

同じ情報。

人間の脳は効率を好みます。

同じ環境にいれば、同じ反応を繰り返すようになります。

逆に環境が変わると、今まで使われていなかった反応が出てきます。

そう考えると、自分探しというより、観測条件を変えるという表現の方が近いのかもしれません。

天体観測で望遠鏡の角度を変えるようなものです。

新しい星が生まれるわけではありません。

見えていなかったものが見えるだけです。

自分探しが苦しくなる理由

一方で、自分探しには少し危うい部分もあります。

行動経済学には確証バイアスという考え方があります。

人は一度信じたものを補強する情報ばかり集める傾向があります。

「自分はこういう人間だ」

と思うと、その証拠ばかり見つけてしまう。

内向的だと思えば内向的な証拠を。

向いていないと思えば向いていない証拠を。

そして気づかないうちに、自分自身を固定してしまうことがあります。

自分探しのつもりが、自分閉じ込めになってしまう。

これは少しもったいない気がします。

見つけるより、観察する

最近、帰納法と演繹法について考えることがありました。

多くの自分探しは、

「本当の自分がどこかにいる」

という前提から始まります。

しかし実際には、

なぜか同じテーマを何年も考えている。

なぜか人の話を聞くのが好きだ。

なぜか文章を書いてしまう。

なぜか特定のことに惹かれる。

そうした小さな事実の積み重ねから、自分らしさは見えてくるのかもしれません。

探すというより、観察する。

発見するというより、気づく。

そんな営みの方が、私にはしっくりきます。

おわりに

結局のところ、自分探しに意味があるのかどうかは分かりません。

ただ、環境を変えた時や、新しい経験をした時に、今まで使っていなかった自分が顔を出すことはあります。

それは特別な自分ではないかもしれません。

隠された才能でもないかもしれません。

でも、知らなかった反応や、見慣れていなかった一面に出会うことはあります。

そう考えると、自分探しという言葉も少し違って見えてきます。

探すというより観察。

見つけるというより気づき。

そんな営みとして眺めてみると、この言葉も悪くないのかもしれません。


自分単体で「本当の自分」を探そうとすると、どうしても行き詰まってしまうことがあります。

そんなときは、自分を取り巻く環境や人間関係をひとつの「システム(仕組み)」として、少し引いた視点から眺めてみるのがおすすめです。

ドンネラ・H・メドウズの『システム思考をはじめてみよう』は、難しい学問の話ではなく、「物事を要素ではなく、全体のつながりで見る」という視点を優しく教えてくれる一冊です。

望遠鏡の角度を変えて自分の「置き場所」を観察するような、新しくてフラットな視点をくれる頼もしい本です。



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