なぜ友人は同級生ばかりなのだろう
ふと考えたことがあります。
友人と呼べる人を思い浮かべると、同級生が多いのです。
小学校。
中学校。
高校。
大学。
そして会社なら同期。
もちろん例外はあります。
年齢の離れた友人がいる人もいるでしょう。
私自身もいます。
それでも全体として振り返ると、友人関係の中心には同年代の人が並んでいるような気がします。
なぜなのでしょう。
少し不思議です。
歳を重ねると、
「友達は少なくていい」
という話をよく聞くようになります。
本当に信頼できる人が数人いればいい。
孤独を楽しめるようになった方がいい。
そんな言葉です。
それはそれで一理あります。
実際、人間関係にはエネルギーが必要です。
若い頃のように、誰とでも気軽に付き合えるわけではありません。
ただ、その話を聞くたびに少しだけ引っかかるものがあります。
本当に私たちは友達が要らなくなったのでしょうか。
それとも、
友達を作る機会が減っただけなのでしょうか。
考えてみると、
子どもの頃は友達を作ろうとしていたわけではありません。
たまたま毎日顔を合わせていた。
たまたま同じ授業を受けていた。
たまたま同じ先生に怒られていた。
たまたま同じテストに苦しんでいた。
そんな時間の積み重ねの中で、気がつけば友達になっていました。
そして、その相手はほとんど同級生です。
同じ年齢。
同じ学年。
同じ立場。
私たちは長い時間をかけて、
「友達とは同級生のようなものだ」
という感覚を自然に身につけているのかもしれません。
学校という巨大な友人製造装置
学校という場所を改めて考えると、少し面白いことに気づきます。
同じ年齢。
同じ時間割。
同じ教室。
同じ課題。
同じ先生。
同じ景色。
人生のかなり長い時間を、私たちはそうした環境で過ごします。
友達ができるのも不思議ではありません。
むしろ、友達ができない方が難しいくらいです。
ここで少し見方を変えてみます。
私たちは学校で、
「同級生と仲良くなる方法」
を学んでいます。
しかし、
「年齢の離れた人と対等な友人になる方法」
はあまり学んでいません。
先輩は先輩。
後輩は後輩。
先生は先生。
関係性は最初から決まっています。
もちろん、それが悪いという話ではありません。
ただ、友人関係の作り方そのものが、同じ立場の人を前提に設計されているようにも見えるのです。
本当に年齢が友人を作るのだろうか
ただ、ここで一つ不思議なことがあります。
浪人した人。
留年した人。
あるいは社会人入学した人。
年齢が違っていても、同じ学年になると普通に友人になります。
私自身もそういう場面を何度も見てきました。
もし友人を作るのが年齢そのものなら、こうはならないはずです。
一歳違う。
二歳違う。
それだけで壁ができてもおかしくありません。
しかし実際にはそうならない。
同じ授業を受ける。
同じ試験を受ける。
同じ課題に悩む。
同じ先生の話を聞く。
そうしているうちに、年齢はあまり重要ではなくなります。
すると少し違う景色が見えてきます。
友人を作るのは年齢ではなく、
「同じ立場」
なのかもしれない。
そんな仮説です。
出会う人があらかじめ決まっている世界
大人になると、この傾向はさらに強くなります。
会社には部署があります。
役職があります。
担当があります。
誰と関わるかも、ある程度決まっています。
学校も会社も、
人間関係が整理された世界です。
毎日顔を合わせる人。
話す人。
協力する人。
その範囲がある程度決まっている。
だから友人も、
同じ部署。
同じ年代。
同期。
そうした人に偏りやすくなるのかもしれません。
ここで少し不思議なことがあります。
日本人はよく、
「集団で動くのが得意な人たち」
のように語られます。
確かに学校や会社では協調性が重視されますし、空気を読む文化もあります。
しかし、研究や調査を見ていると少し違う景色も見えてきます。
一人暮らしは多い。
一人で食事をすることにも比較的抵抗が少ない。
地域や宗教といった共同体への帰属意識も、欧米の一部の国々ほど強くありません。
また、
「家族や友人のためなら自分を犠牲にしてもよい」
という意識も、世界的に見ると必ずしも高いわけではないそうです。
権威との距離感も独特です。
表面的には従っているように見えても、心の底から信頼しているとは限らない。
そんな調査結果もあります。
こうして見ると、
日本人は「集団のために生きる人たち」というより、
「関係性の中で生きる人たち」
なのかもしれません。
大きな共同体への帰属意識よりも、
目の前の人との関係を大切にする。
そんな傾向です。
だから私たちは、
年齢や肩書そのもので友人になるのではなく、
一緒に過ごした時間や共有体験によって友人になる。
そして、その共有体験が生まれやすいのが、たまたま学校や会社だった。
そう考えると、
同級生や同期に友人が多い理由も、少し違って見えてきます。
アルバイト先で見た景色
そんなことを考えるようになったのは、あるアルバイト先での経験がきっかけでした。
しばらく副業のような形で関わっていた職場です。
そこには様々な年代の人がいました。
二十代の人もいました。
三十代の人もいました。
自分の子どもと同じくらいの年齢の人もいました。
不思議だったのは、年齢をほとんど意識しなかったことです。
もちろん年齢差はあります。
でも、
誰が年上で、
誰が年下で、
そんなことがあまり重要ではありませんでした。
社員でもない。
上司部下でもない。
ただ同じ現場を支える仲間だった。
その感覚の方が強かったのです。
一緒に働く。
一緒に困る。
一緒に笑う。
一緒に忙しい日を乗り切る。
そうした時間が積み重なっていきました。
そして数年後。
私は大きな病気になりました。
人生の中でもかなり大変な時期でした。
そしてそんな時、その温かさはさらに強く感じられました。
家族以外で大きな支えになってくれたのが、その仲間たちでした。
もちろん私は、
「大丈夫だから」
と言います。
心配しなくていい。
仕事もあるだろうし、
わざわざ来なくていい。
そう伝えました。
それでも来るのです。
顔を見に来る。
様子を見に来る。
差し入れを持ってくる。
そして驚いたのは、
最初のお見舞いの時でした。
彼ら、彼女らは、
みんなで作ったという千羽鶴を持ってきてくれたのです。
正直、言葉を失いました。
自分の人生の中で、
千羽鶴をもらう側になるとは思ってもいませんでした。
今思い返しても、
あれは単なる気遣いではありませんでした。
少しお節介なくらいの優しさでした。
振り返ると、それは私が普段いる本業の人間関係では、なかなか経験できない種類の温度だったように思います。
本業には本業の良さがあります。
しかし同時に、
役割があります。
立場があります。
責任があります。
人は簡単にはその枠から離れられません。
しかし、その場所には少し違う空気がありました。
上司でもない。
部下でもない。
取引先でもない。
ただ同じ現場を支える仲間だった。
だからこそ生まれる距離感があったのかもしれません
今振り返ると、
私を支えてくれたのは年齢の近さではなかったように思います。
共有した時間でした。
同じ現場で見た景色でした。
そして、その景色の中で育まれた、人と人との素朴な思いやりだったのかもしれません。
人は何でつながるのだろう
もちろん年齢は無関係ではありません。
価値観が近いこともあります。
共通の話題もあります。
しかし、人と人を強く結びつけるものは別のところにあるようにも思います。
一緒に働いた。
一緒に困った。
一緒に笑った。
一緒に乗り越えた。
そうした具体的な経験の方が、年齢という数字よりも強く記憶に残ります。
こうして経験を並べてみると、少し見えてくるものがあります。
私たちは年齢で友人になるのではない。
同じ景色を見た人と友人になるのかもしれない。
おわりに
同級生は、たまたま同じ景色を見やすい存在です。
同期もそうです。
同じ教室。
同じ職場。
同じ課題。
同じ時間。
だから友人になる。
そして時々、
年齢も肩書も違う人と同じ景色を見ることがあります。
その時に初めて、
友人を作るのは年齢ではなかったのかもしれないと気づきます。
大人になると友達が減る。
そんな言葉を聞くことがあります。
それは本当かもしれません。
でも別の見方をすれば、
友達が減ったのではなく、
同じ景色を見る機会が減っただけなのかもしれません。
友人とは何だろう。
そんなことを考えていたはずなのに、
最後には少し違う問いにたどり着きました。
私たちは誰と時間を共有しているのだろう。
誰と同じ景色を見ているのだろう。
友人というものは、その答えの中から静かに生まれてくるのかもしれません。
コラム:『サードプレイス』という社会インフラ
アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグは、人間の生活基盤を3つの空間に分類しました。
- 第1の場(ファーストプレイス): 家庭(プライベートな空間)
- 第2の場(セカンドプレイス): 職場や学校(生産性や成果を求める空間)
- 第3の場(サードプレイス): カフェやパブ、広場(純粋な交際のための空間)
ここで重要なのは、第1の場も第2の場も、現代人にとっては「何らかの役割や責任(親、子、上司、部下など)を演じることを強制される空間」であるという点です。
どれほど居心地が良くても、そこでは常に期待されるキャラクターが存在し、人間OSのメモリを消費し続けます。
それに対して「サードプレイス」とは、社会的な肩書や年齢といったラベルをすべて剥ぎ取った「生身の個」として、フラット(±0)に存在することが許された空間を指します。
真のサードプレイスには、以下の4つの特質があると論じられています。
- 徹底的なレベラー(平準化): 肩書や年齢が通用せず、全員が対等である。
- 会話が主たる活動: 結論を求めない、他愛のない対話そのものが主役。
- アクセスの容易さ: 行きたい時に行け、立ち去りたい時に立ち去れる流動性。
- 目立たない佇まい: 空間自体が主張せず、そこに集まる「人」が主役になる。
日本社会は学校(学年)や会社(役職)という「整理された世界」の引力が強すぎるため、このサードプレイスが構造的に育ちにくい土壌があります。
大人になって友達が減る、あるいは関係性が硬直化するのは、個人の問題ではなく、生活の中からこの「第3の余白」が消滅しているからに他なりません。
役割の檻を離れ、ただの「個」として人と出会う場所がなぜ人間に不可欠なのか。その構造を鮮やかに解き明かしてくれる、コミュニティ論の名著です。
Re:Trader ─ トレードからはじまる行動と心理のノートをもっと見る
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