大谷翔平選手がMLBのABSに対して語った「審判にもいい」という一言を入口に、
誤審そのものよりも、人がミスを抱えたまま次の判断を続けることの苦しさを掘り下げた記事です。
審判の心理やバイアス、少年サッカーでの自身の経験、子育てや仕事の場面までつなぎながら、
判定技術とは正確性のためだけでなく、人間のメンタルを支え、ミスの残響を清算するための仕組みでもあるのではないか、という視点で考えています。
大谷翔平がABS(自動ボール判定)に寄せた「審判にもいい」という言葉の深淵
MLBで導入されたABSチャレンジについて、大谷翔平選手が語ったコメントを見て、少し立ち止まりました。
こうした判定技術について語られるとき、私たちはまず、
「選手にとって公平か」
「観客にとって納得感があるか」
という方向から考えがちです。
もちろん、それは大事なことです。
実際、MLBのABSは、ボール/ストライク判定に対して打者・捕手・投手がその場で異議を申し立てられる仕組みで、2026年シーズンから導入されています。
誤審を減らし、判定の透明性や納得感を高める制度として位置づけられています。
ただ、大谷翔平選手の発言で印象的だったのは、そこだけではありませんでした。
大谷翔平選手は、2026年シーズン最初の登板で勝ち投手になった試合後、このABSについて、
「見る方もやる方も、審判の方にとっても全体的にいいんじゃないかな」という
趣旨のことを話しています(※筆者がインタビュー報道をもとに要旨を記したもので、逐語引用ではありません)。
この「審判の方にとってもいい」という一言が、とても興味深く感じられました。
なぜなら、この言葉には、単なる新技術歓迎ではない視点があるからです。
判定技術は、審判の権威を奪うものではなく、むしろ人間が人間として判定を続けることの厳しさを少し軽くしてくれるものでもある。
大谷翔平選手は、そこまで含めて見ていたのではないか。
そんなふうに思いました。
ここには、MLBの新ルールに対する感想以上のものがあります。
誤審を減らす話であると同時に、ミスを抱えたまま進まなければならない人間のメンタルをどう支えるか、という話にも見えてくるのです。
誤審のトラウマと「ミスの残響」|審判が直面するメンタル不調とバーンアウトの構造
人はつい、「ミスをしたこと」そのものに注目します。
ですが実際には、そのあとがもっと厳しいのかもしれません。
間違えたかもしれない。
いや、さっきの判定は違っていたのではないか。
でも試合は止まらない。次の投球はもう来る。次のプレーも始まる。
この、「自分の中に違和感や迷いを残したまま、それでも次の判断をしなければならない」という状態は、かなり苦しいはずです。
実際、その感覚はただの想像ではなさそうです。
MLBの審判ジム・ジョイスは、2010年に完全試合を誤審で消してしまったあと、その出来事を今でもほとんど毎日考えると語っています。
かなり極端な事例ではありますが、誤りというものが、その場で終わらず、判定した本人の中に長く残り続けることを示す象徴的な例です。
28アウトの完全試合と「ミスの残響」
2010年6月2日、デトロイト・タイガースのアーマンド・ガララーガ投手は、あと一人で完全試合という場面で、明らかな誤審により大記録を逃しました。
一塁審判のジム・ジョイスは、試合直後にビデオで自分のミスを確認し、「一人の若者の人生を変える大記録を台無しにしてしまった」と審判室で号泣したといいます。
翌日の試合、メンバー表の交換のために本塁へ向かったガララーガは、涙を浮かべるジョイスの肩を叩き、笑顔で握手を交わしました。
この光景はスポーツ史上最も美しい和解のひとつとされていますが、ジョイスはその後も「あの判定を思い出さない日は一日もない」と語り続けています。
一人の人間が背負うにはあまりに重すぎる「ミスの残響」。
この事件は、MLBがビデオ判定やABS(自動ボール判定)の導入へと舵を切る、歴史的な転換点となりました。
さらに、サッカーのエリート審判に関する研究では、重大な判定ミスのあとに感情が大きく揺れ、「次の判定をするマインドセットではない」と感じることがあると報告されています。
近年のレビューでも、スポーツ審判は心理的圧力、失敗への恐れ、過去の失敗の反すうなどによって、メンタル不調やバーンアウトのリスクを抱えやすいことが整理されています。
ここで見えてくるのは、審判の仕事の厳しさが、単に「正しい判定を下すこと」だけにあるのではないということです。
本当に厳しいのは、
もしかしたら間違えたかもしれない自分を抱えたまま、次もまた判断しなければならないこと
なのかもしれません。
この苦しさは、判定の世界に限りません。
私たちの日常にも、よく似た場面があります。
たとえば、親が子どもを叱りすぎてしまった夜です。
言いすぎたかもしれない。
あそこまで強く言わなくてもよかったのではないか。
そんな後味の悪さを抱えたまま、それでも少し時間がたてば「ごはんできたよ」と夕食に呼ばなければならない。
普段どおりの会話をしなければならない。
あの瞬間の親の苦しさは、単なる反省ではありません。
ミスを抱えたまま、次の関係を続けなければならない苦しさです。
あるいは、会社員が前回の会議で誤った数字を出してしまったとします。
あれはまずかった。
気づいている人もいたかもしれない。
訂正のタイミングはもう過ぎたかもしれない。
そんな焦りを引きずりながら、それでも次のスライドをめくり、平然とプレゼンを続けなければならない。
その孤独もまた、かなり重いものです。
私は、この「前のミスや違和感が心の中に残ったまま、次へ進まなければならない状態」を、ミスの残響と呼びたくなります。
人を本当に消耗させるのは、ミスそのものだけではない。
その残響を内側に響かせたまま、平静を装って前に進み続けることなのだと思います。
「逐次バイアス」の罠|審判も親も逃れられない、過去の判断に支配される脳の仕様
しかも厄介なのは、人間がそう簡単に前の判断を切り離せないことです。
これは審判だけの問題ではありません。
人間全般の判断には、ひとつ前の出来事が次の判断に影響してしまう、いわゆる逐次的なバイアスが入りやすい。スポーツの判定でも、その傾向は示されています。
野球の判定研究では、直前のコールが次のボール/ストライク判定に影響する可能性が報告されています。
難しい言葉で言えば逐次バイアスですが、もっと単純に言えば、人は前の判定を引きずったまま次を見てしまうことがある、ということです。
私の卑近な例で恐縮ですが、自分も少年サッカーでレフェリーしていた経験があります。
もう10年以上前のことなのに、いまだに「あれはミスだったかな」と思い出す場面があります。
フィフティフィフティ程度の接触プレーで、身体の大きな選手に少し不利な判定と注意をしてしまったことがありました。
その選手はとても優秀で、だからこそ当時の僕には、半ば親のような気持ちで「君のような選手は、身体の小さな選手のことを少しだけ気遣ってあげてほしいな」という思いが、どこかにあったのだと思います。
でも今振り返れば、それは純粋なジャッジとは少し違うものが混ざっていたのかもしれません。
そのときの彼の、「でもファールじゃないよね」という少し恨みがましい眼差しを、不思議なくらい今でも覚えています。
この記憶が自分の中に残っているのは、単に笛を吹いたからではありません。
あのときの自分の判定に、ジャッジ以外のものが混ざっていたかもしれないという感覚が、今も少し残っているからです。
思い返すと、PKを取るまでは行かなくても、埋め合わせのような判定も、自分はまったくしていなかったとは言い切れません。
さっき少し厳しく取った。
だから次は少し緩く見てしまう。
そういう微妙な揺れは、たしかに人間の中に起こりうるのだと思います。
ここには、ただの見間違いだけではないものがあります。
「公平にしたい」という気持ち。
「自分は偏っていないはずだ」という自己像。
「前の違和感を少しでも帳消しにしたい」という無意識。
そういうものが混ざり合って、純粋な判定を少しずつ濁らせていく。
ここで興味深いのが、いわゆるmakeup call、埋め合わせ判定の話です。
悪い判定のあとで、不利益を受けた側に後から有利な判定が出やすくなる可能性を扱った研究もあり、そこでは単なる公平感だけでなく、罪悪感のような感情が背景にある可能性まで論じられています。
もちろん、すべての審判がそうだと言いたいわけではありません。
訓練を受けた審判は、それをできるだけ抑えようとしているはずです。
それでも、人間である以上、
「前の判断は正しかったのか」
「今度こそ間違えたくない」
「どこかで均衡を取り戻したい」
という心理がゼロになることはないのでしょう。
つまり、人間はただミスをする存在なのではありません。
ミスを引きずる存在でもある。
ここが、とても大事なのだと思います。
なぜ人間には「外部基準」が必要なのか?自己正当化の心理を清算する仕組み
もうひとつ大事なのは、人間が自分のミスをすんなり認められる存在でもないことです。
ミスかもしれない。
でもそうだと認めたくない。
あるいは、認めてしまうと自分の判断全体が崩れてしまいそうで、無意識に正当化したくなる。
これは審判に限らず、私たちの日常でもかなりよくあることです。
人間には、自分の判断の一貫性を守りたい気持ちがあります。
過去の自分を否定したくない気持ちもあります。
だからこそ、一度下した判断に妙な愛着が生まれたり、明らかに修正したほうがいい場面でも、少しだけ引っ張ってしまうことがある。
そう考えると、機械やレビュー制度が
「ここは一度、外部基準で確認しましょう」
と割って入ることには、かなり大きな意味があります。
それは、人間の権威を奪うことではありません。
むしろ、人間が自分の判断を抱え込みすぎないための助けです。
ここで言う外部基準とは、単なる冷たい機械判定のことではありません。
ミスの残響を、本人の内側だけで抱え込ませず、いったん外に出して清算してくれる仕組みのことです。
親であれば、感情が高ぶったあとに一度距離を置くことかもしれません。
会社員であれば、数字を第三者に確認してもらう仕組みかもしれません。
そしてMLBの審判にとっては、ABSのような判定技術がその役割を担いうる。
人間は、自分の内側だけで誤りを処理するには、少し脆い。
だからこそ、外部基準があることは救いになるのだと思います。
ABSやVARは「人間の代わり」ではない。判定技術がもたらす心理的リセットの効果
ここで、ABSチャレンジやVARのような判定技術の意味が見えてきます。
それは、「人間の審判は信用できないから、機械に置き換えよう」という話ではありません。
むしろ逆です。
人間は間違える。
しかも、その間違いを抱えたまま次の判断に影響を受けやすい。
だからこそ、一定の場面では外部基準で一度きれいに清算できる仕組みが必要になる。
この考え方です。
実際、他競技でも判定技術はそのように位置づけられています。
サッカーのVARは制度上、主審を代替するものではなく補助するものとして設計されていますし、テニスやバレーボールでも、レビュー技術は審判の存在を消すのではなく、判定の確からしさと試合の納得感を支えるものとして使われています。
もちろん、技術導入には別の問題もあります。
監視されている感覚が強くなることもあるでしょうし、競技によっては運用の難しさや新しいストレスを生むこともあるでしょう。
実際、VARについては評価だけでなく批判もあります。
だから、判定技術の導入が常に単純なプラスになるとは言い切れません。
それでもなお、ひとつ言えることがあります。
人間は、ミスを完全に自力で処理しきれるほど強くはない。
だからこそ、外部基準によって
「ここはいったん訂正しましょう」
「ここはもう次へ進みましょう」
と区切ってくれる仕組みには、大きな価値がある。
それは冷たい仕組みではなく、むしろ人間にやさしい仕組みなのかもしれません。
誤審を減らすこと。
判定の公平性を高めること。
もちろんそれも大切です。
けれど、ABSの本当の価値は、それだけではないのかもしれません。
ミスの残響という心理的負債を、その場で少し清算してくれること。
その意味で、判定技術は正確性の道具であると同時に、メンタルを守る仕組みでもあるのだと思います。
大谷翔平の「審判にもいい」は、そこを見ていたのではないか
大谷翔平選手のコメントが面白いのは、まさにそこです。
ABSを、単に選手や観客のための制度としてではなく、
判定する側の人間にとってもいいもの
として見ていた。
この視点は、かなり本質的です。
世の中では、技術が入るとすぐに
「人間の仕事が奪われる」
「権威が損なわれる」
という話になりがちです。
でも本当は、そうではない場面も多い。
人間の仕事が厳しいのは、ただ責任が重いからではなく、
曖昧さを抱えたまま進まなければならないから
です。
見間違いだったかもしれない。
確認しきれなかったかもしれない。
でもそのまま先へ進まなければならない。
そのうえ、自分の中に残った違和感を、周囲には見せずに次の判断へ入らなければならない。
この負荷は、思っている以上に大きいはずです。
大谷翔平選手の「審判にもいい」は、その重さをわかっている人の言葉のように聞こえました。
判定技術とは、審判の価値を下げるものではない。
むしろ、審判が人間であり続けるための補助なのだ、と。
そう読むと、この一言は単なる技術歓迎コメントとは少し違うものに見えてきます。
子育てや仕事でも起きる「ミスの残響」|私たちはどうすれば判断の負債を清算できるのか
そしてたぶん、この話はスポーツだけではありません。
仕事でもそうです。
会議でも、接客でも、運転でも、子育てでもそうかもしれません。
ひとつ前の判断に迷いが残ったまま、次の判断を迫られる。
自分のミスかもしれないものを抱えたまま、平静な顔で続けなければならない。
ここまで審判の話を軸に書いてきましたが、これは仕事でも子育てでも同じ構造が現れます。
人間が消耗するのは、ミスそのものよりも、
ミスの残響を内側に抱えたまま進み続けること
なのではないでしょうか。
もしそうなら、私たちに本当に必要なのは
「絶対に間違えないこと」
ではありません。
間違えたときに、
それを引きずりすぎず、
きちんと清算し、
次の判断に戻れること。
そういう仕組みや、環境や、補助線なのだと思います。
MLBのABSは、野球の新しい判定技術です。
けれど見方を変えれば、それはもっと大きなことを教えてくれます。
人間は、誤審する。
人間は、言いすぎる。
人間は、数字を間違える。
人間は、次の判断に前の揺れを持ち込んでしまう。
だからこそ、外部基準がいる。
だからこそ、清算の仕組みがいる。
だからこそ、ひとりで抱え込まなくていい形がいる。
大谷翔平選手の「審判にもいい」という一言は、
そのことを静かに言い当てていたのかもしれません。
【編集後記:ノイズを削ぎ落とし、ただ『本質』と対峙する】
「審判にもいい」。
大谷翔平選手が放ったその言葉の裏には、誤審という「予測不能な変数」に思考を奪われるコストを排し、純粋に野球という競技の深淵に潜りたいという、圧倒的なプロフェッショナリズムが透けて見えます。
ABS(自動判定)が救うのは、判定の正確さだけではありません。
選手と審判、双方の脳内に蓄積する「心理的な負債」をゼロにし、パフォーマンスを極限まで研ぎ澄ますための「環境」そのものです。
大谷選手がニューバランスを選び、共に歩む理由も、おそらくそこにあるのでしょう。
過剰な装飾を捨て、最高のパフォーマンスを引き出すために設計されたニューバランスのギア。
それは、余計なノイズを排除し、自分の感覚(OS)を信じて一歩を踏み出すための、最も信頼できるパートナーです。判定の正誤に惑わされず、ただ自分のスイングを、自分のピッチングを貫く。大谷翔平が見ている「ノイズのない世界」を、その足元から体感してみませんか。
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このブログでは、日常のふとした瞬間に感じる「生きづらさ」や、
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