SNSと酸っぱい葡萄──私たちは今日も自分を守る
SNSを見ていると、ふと胸の奥がチクリとすることがあります。
友人の旅行写真、同僚の昇進報告、知らない人のキラキラした日常。
別に羨ましいわけじゃない。そう思った瞬間に、「いや、私はこっちの方が幸せだから」と心の中でつぶやく。
それが、現代版の“酸っぱい葡萄”です。
寓話では、キツネが高い木の上にある葡萄を取ろうとして届かず、「あれはきっと酸っぱいに違いない」と言い訳をします。
自分の行動と結果が食い違うとき、人は無意識のうちに思考を修正して、心の痛みをやわらげようとする。
心理学ではこれを「認知的不協和」と呼びます。

SNSは、この不協和を日常的に生み出す装置のようなものです。
誰かの“成功”や“幸せ”が、スクロールするたびに目に入る。
届かない葡萄が、いつでも指先のすぐ向こうにぶら下がっているような世界です。
だから私たちは、心の中で小さな調整をします。
「自分には自分のペースがある」
「あの人はあの人の人生だ」
こうしてバランスを取り戻すたびに、私たちは静かに自分を守っているのです。
面白いのは、この“言い訳”が必ずしも悪いことではないという点です。
認知的不協和は、心の安定を保つための自然な機能でもあります。
それがなければ、人は他人と比べるたびに自己否定に陥ってしまうでしょう。
酸っぱい葡萄は、心の防衛反応であり、ある種のやさしさでもあるのです。
ただし、この防衛が強くなりすぎると、現実との接点を失ってしまいます。
「どうせ自分には無理」と思い込むことで、可能性を閉ざしてしまう。
酸っぱい葡萄を言いすぎると、甘い葡萄を取りに行く気力まで奪われるわけです。
大切なのは、“自分を守りながらも、少しは手を伸ばしてみる”こと。
SNSに映る他人の世界を完全に否定するのでも、過剰に羨むのでもなく、
「今の自分には、まだ届かないけれど、あれも一つの景色だな」と思えたら、
それだけで心は少し自由になります。
酸っぱい葡萄を笑いながら見上げられるようになること。
それが、SNSという森の中で、穏やかに生きるための小さな成熟なのかもしれません。
