推し活は「いま好き」という気持ちだけで続いているわけではないのかもしれません。
ある程度続いた推し活の中には、時間、思い出、習慣、
そして「ここまで追ってきた」という感覚も静かに混ざってきます。
この記事では、行動経済学のサンクコストという視点から、推し活の継続と人間の割り切れなさをやさしく考えてみます。
推し活の始まりには、たいてい高揚感があります。
新しく知ることがどんどん増える。
見たいもの、聴きたいもの、追いたいものが次々に出てくる。
気持ちも上がるし、日々に少し張りが出る。
もしかしたら、同じ推しを好きな人とのつながりができることもあるかもしれません。
そういう時期の推し活は、純粋に楽しい。
新鮮で、前向きで、生活を少し明るくしてくれるものです。
ただ、ある程度それが続いてくると、ふと立ち止まる瞬間もあります。
冷めたわけではない。
嫌いになったわけでもない。
でも、このまま同じように続けていく感じでいいのかな、と少し考える。
自分の生活が変わったからかもしれません。
忙しくなったり、お金の使い方が変わったり、気力や時間の配分が少し変わったりする。
あるいは推し相手の変化、あるいは変化のなさが、以前とは少し違って見えてくることもある。
大きなきっかけではないのです。
本当にちょっとしたことです。
でも、その小さな揺れの中で静かに見えてくるものがあります。
それが、「ここまで追ってきた」という感覚です。
今回は、その感覚を行動経済学にあるサンクコストという考え方を手がかりに、少しやわらかく眺めてみたいと思います。
これは、推し活を否定したい話ではありません。
むしろ逆です。
自分の推し活の中にある「今の好き」と「ここまで」を少し見つめてみると、案外おもしろいのではないか。
そんな話です。
推し活の心理学:なぜ「昔ほどの熱量」がなくても続けてしまうのか
推し活というと、どうしても「好きだから追っている」と言いたくなります。
もちろん、それは間違っていません。
好きだから気になるし、応援したいし、時間も使う。
そこに嘘はないと思います。
ただ、ある程度続いた推し活になると、それだけでもない気がしてきます。
何年も追ってきた時間。
ライブや配信を見てきた記憶。
その時期の自分の生活と結びついている曲や場面。
少しずつ使ってきたお金。
習慣のように見てきたSNSや告知。
そういうものが少しずつ重なって、いまの「好き」の輪郭をつくっている。
だから推し活は、「いま好きかどうか」だけでは測りにくいのだと思います。
気持ちには波があります。
どんなに好きでも、いつも同じ熱量ではいられません。
それでも追い続けることがあるのは、そこに「今の気持ち」だけでなく、「ここまで追ってきた自分」も含まれているからなのでしょう。
今回考えたいのは、まさにその部分です。
推し始めたばかりの高揚感ではなく、
ある程度続いてきた推し活の中で、ふと見えてくる「ここまで」の感覚。
サンクコストが関係してくるのは、たぶんそういう場面です。
行動経済学で見るサンクコスト:戻らない「過去」が今の判断を狂わせる
ここで出てくるのが、サンクコストという考え方です。
サンクコストとは、すでに払ってしまって、もう戻らないコストのことです。
お金でも、時間でも、労力でもかまいません。
すでに使ったものは回収できない。
それでも人は、その「もう戻らないもの」に気持ちや判断を引っぱられてしまうことがあります。
たとえば、映画があまり面白くないのに、
「ここまで見たんだから最後まで見よう」と思ってしまう。
もうあまり着ていない服なのに、
「高かったから捨てにくい」と感じる。
本当はやめたい何かを、
「ここまでやったのにもったいない」で続けてしまう。
そういう、「過去に払ったもの」が現在の判断に残ってしまう状態を、サンクコストと呼びます。
たとえばトレードでも、この感覚はかなりわかりやすく出ます。
本来はここから先の見通しで判断すべきなのに、「ここまで耐えたのだから」という気持ちが混ざってしまう。
過去に入れたお金が、現在の判断を曇らせるわけです。
推し活にも、これと少し似たことが起きているのかもしれません。
ここまで追ってきた。
ここまで応援してきた。
ここまで好きでいた。
だから今の判断にも、その「ここまで」が静かに残っている。
そう考えると、推し活はサンクコストがかなり見えやすい世界でもあります。
「今日ゼロから始めるなら?」—— 合理的な判断に立ち返るための問い
では、行動経済学や合理的な意思決定の考え方では、サンクコストにどう向き合うのでしょうか。
基本的な考え方はかなりはっきりしています。
すでに払ってしまったコストは、これからの判断材料に入れないほうがよい。
なぜなら、それはもう戻らないからです。
過去にいくら使ったか。
どれだけ時間をかけたか。
そこにどれだけ気持ちを注いだか。
それ自体は事実として消えません。
でも、未来の判断では、それをいったん切り分けたほうがよいとされます。
大事なのは、
「ここまで何を払ったか」ではなく、「ここから先、それを続ける価値があるか」
という問いです。
言い換えると、こういう考え方になります。
今日ゼロの状態から、あらためてこれを始めるとしても、同じ選択をするだろうか。
この問いはかなり強いと思います。
もし答えが「はい」なら、続ける意味はまだあるのかもしれない。
もし答えが「いいえ」なら、それは過去のコストに引っぱられている可能性がある。
そして、たぶんいちばん人間らしいのは、「わからない」という答えです。
まだ好きな気もする。
でも、ここまで続けてきたことに引っぱられている気もする。
推し活では、そういう曖昧な感覚のほうがむしろ自然なのかもしれません。
合理的に考えるなら、サンクコストへの対処はこうなります。
これはたしかに、その通りなのだと思います。
ただ、ここで話を終えると、少し乾いた記事になります。
それでも人間は、そんなにきれいにはできていない
合理的な原則としては、その通りです。
でも人間は、そこまできれいにはできていません。
なぜなら、私たちはお金だけで動いているわけではないからです。
時間。
感情。
思い出。
あの頃の自分。
そのとき一緒にいた人。
少しずつ積み重なってきた習慣。
そういうものまで含めて、私たちは何かを好きになり、何かを続けています。
推し活は、そのことがとてもよく見える場面です。
ライブに行った帰り道のこと。
新しい曲を聴いた日の気分。
落ち込んでいた時期に、その存在に助けられた記憶。
少し遠い街まで足を運んだ日。
そういうものは、合理的に言えば「未来判断とは関係のない過去」かもしれません。
でも人生の感覚としては、そんなに簡単に切り離せない。
だからサンクコストという言葉を知っても、
「なるほど、では全部きっぱり切り分けて考えましょう」とは、なかなかならないのです。
ここが人間らしいところだと思います。
サンクコストは、たしかに判断を曇らせることがあります。
でも同時に、それはここまで生きてきた時間の重みでもある。
推し活においてそれは、単なる執着とは少し違う顔をしています。
お金より重い「時間のサンクコスト」:推し活が人生の一部になる理由
推し活のサンクコストが少し独特なのは、お金だけではできていないことです。
もちろん、お金もあります。
チケット代、グッズ代、遠征費、配信、会費。
数字で見えるコストもたしかにある。
でも、それ以上に大きいのは、たぶん自分の時間です。
何年も追ってきたこと。
その間に何度も気持ちを動かしてきたこと。
「あの頃の自分」はこの人を聴いていた、見ていた、応援していた、という記憶。
つまり推し活のサンクコストは、お金以上に、自分の人生の一部でできている。
だからややこしいのです。
ただの出費なら、切り分けやすい。
でも、自分の時間が乗っているものは、単なる損得では見にくい。
このあたりが、推し活を少しおもしろくしています。
合理性の教科書で見ると、そこには「過去に引っぱられている人」がいる。
でも人間の生活として見ると、そこには「自分の時間を大事にしている人」もいる。
どちらも、少し本当です。
推し活を「執着」から「積み重ね」に変えるための、自分への問いかけ
では、結局どう考えればいいのでしょうか。
たぶん大事なのは、サンクコストがあること自体を悪いことにしすぎないことです。
人間が過去を引きずるのは、ある意味では自然です。
むしろ、何も引きずらずに生きるほうが難しい。
ただ、そのうえで一度だけ、自分に聞いてみるのは悪くないと思います。
これはもう、ただの惰性なのか。
それとも、いまでも自分に何かを残しているのか。
ここです。
もう苦しいだけなのに、「ここまで来たから」で続けているのか。
それとも熱量の波はあっても、まだちゃんと楽しさや意味があるのか。
この違いはあるはずです。
サンクコストという言葉を知ることの良さは、推し活をやめるための理屈が増えることではありません。
むしろ、自分の中の「今の好き」と「ここまで」を少し分けて見られることにあるのだと思います。
それができると、推し活を前より少し丁寧に味わえる気がします。
自分の推し活を、少し違う目で眺めてみる
サンクコストという言葉は、どこか冷たい響きもあります。
もう戻らないもの。
過去に引っぱられる非合理。
判断を曇らせる要因。
たしかにそういう面はあります。
でも、推し活という題材を通して見ると、この言葉は少し違って見えてきます。
自分はなぜここまで追ってきたのか。
なぜ簡単には離れにくいのか。
いま感じている「好き」は、どこまでが現在の気持ちで、どこからが積み重ねた時間なのか。
そんなふうに、自分の推し活を少し違う角度から眺めてみる。
それは案外、楽しいことなのかもしれません。
もちろん、それで急にやめたくなるわけではありません。
やめたいわけではないのです。
むしろ、やめたいわけではないからこそ、自分の中にある「ここまで」を少し見つめてみたくなる。
推し活とは、ただ好きなものに夢中になることだけではなく、
自分が何に時間をかけ、何に気持ちを使い、何を大事にしてきたかを知ることでもあるのかもしれません。
おわりに
行動経済学の原則でいえば、すでに払ってしまったコストは、未来の判断から切り分けたほうがよい。
それは合理的には正しい考え方です。
でも人間は、そんなにきれいにはできていません。
私たちは過去にかけたお金だけでなく、時間や感情や思い出まで抱えて生きています。
そして推し活は、そのことを少し楽しく、少しやさしく考えさせてくれる題材です。
好きだから追うのか。
追ってきたから好きなのか。
たぶん答えは、どちらか一つではありません。
その両方が少しずつ混ざりながら、いまの「好き」はできているのだと思います。
自分の推し活の中に、そんなサンクコストの影を少し見つけてみる。
それは、推し活をやめるためではなく、
なぜ自分がここまで楽しんでいるのかを、少しだけ深く知るため
なのかもしれません。
【編集後記:理由なんて、後からついてくる】
「好きだから追うのか、追ってきたから好きなのか」。
そんな理屈は一度置いておいて、まずは自分の感覚を信じて外へ飛び出してみませんか。
あなたが推しを想って歩く一歩一歩が、そのままあなたの人生の密度になります。

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