「個性を大事に」「その子らしさを伸ばそう」という言葉は、やさしく聞こえます。
けれど、個性とは本当に、親が必死に守らなければ消えてしまうものなのでしょうか。
むしろ個性とは、その子がその子である限り、平凡な日常の中でも隠しきれずににじみ出てしまうものなのかもしれません。
この記事では、親はなぜ子どもの個性を求めるのか、その奥にある願いや不安も含めて、静かに考えてみます。
「個性を大事にしましょう」という言葉は、よく聞きます。
その子らしさを伸ばそう。
個性をなくさないようにしよう。
他の子と同じでなくていい。
たしかに、その方向そのものが悪いとは思いません。
子どもを無理に同じ型にはめようとするより、ずっといい。
それはそうだと思います。
「個性を大事に」という言葉の、やさしくて曖昧な正体
ただ、その一方で、ずっと少し引っかかっていることもあります。
個性とは、そもそも何なのだろう。
私たちはその言葉に、何を込めているのだろう。
目立つことなのか。
得意なことなのか。
才能のことなのか。
その子らしさのことなのか。
言葉としてはとてもやさしいのに、中身は案外あいまいです。
だからこそ、親はそのあいまいな言葉に、いろいろな願いや不安を乗せやすいのかもしれません。
今回は、そのことを少し考えてみたいと思います。
個性とは、守らなければ消えてしまう「ガラス細工」なのか
「個性を大事に」という言い方には、どこか
守らなければ失われてしまうもの、
気をつけなければ壊れてしまうもの、
という響きがあります。
でも本当に、個性とはそんなに繊細なものなのでしょうか。
隠そうとしてもにじみ出てしまうものこそ、個性と呼ぶ
私自身は、むしろ逆ではないかと思っています。
個性というのは、隠そうとしても出てきてしまうもの。
均そうとしても、どこかでにじみ出てしまうもの。
その人がその人である限り、消そうとしても残ってしまうようなもの。
そういうものを、個性と呼ぶほうが自然なのではないかと思うのです。
もちろん、人は環境の影響を受けます。
親の関わり方にも左右される。
学校や友達や経験によって、かなり変わる。
それでもなお、どうしても残るものがある。
どうしても出てしまう反応の仕方がある。
気づくといつもそこにいるような、その子らしさがある。
個性とは、親が必死に守ってあげないと消えてしまうガラス細工というより、もっとしぶといものなのかもしれません。
個性と「特別さ」を混同すると、本質が見えなくなる
親はどうしても、個性という言葉を「特別さ」と結びつけやすいのだと思います。
他の子にはない何か。
光るもの。
目立つもの。
その子ならではの強み。
もちろん、そういうものがある子もいるでしょう。
それ自体を悪いと言いたいわけではありません。
ただ、個性と特別さは、たぶん同じではない。
平凡を受け入れた先にしか見えない「その子らしさ」がある
その子の個性が、必ずしも目立つ形で現れるとは限りません。
むしろ、平凡に見える日々の中で繰り返し出てくるもののほうが、個性に近いこともある。
たとえば、何かを決めるまで時間がかかる。
気になることがあると何度でも確かめたがる。
人の輪の中にすぐは入らない。
でもいったん好きになると、妙に深く入り込む。
同じ遊びを何度でも繰り返す。
人が気づかないところを気にする。
こういうものは、才能とも言いにくいし、特別さとも少し違う。
でも、その子から消えずに出てくるものだとしたら、それもまたかなり個性なのではないでしょうか。
そう考えると、平凡であることを受け入れることと、個性を大事にすることは、必ずしも矛盾しないのだと思います。
むしろ、平凡を受け入れられないと見えなくなる個性もあるのかもしれません。
なぜ親は、わが子にこれほど「個性」を求めてしまうのか
ここで、もう一つ考えたいことがあります。
親はなぜ、そんなに「個性」を気にするのでしょうか。
これは、少し大きな問いです。
親は、自分の人生をある程度生きてきています。
生きることがそんなに簡単ではないことも知っている。
努力と結果がきれいに比例しないことも知っている。
普通に生きることだって、案外しんどいと知っている。
その願いの奥にあるのは、切実な「生存不安」というプログラム
それなのに、子どもに対しては、
「何かその子らしいものを」
「何か光るものを」
「何か他の子と違うものを」
と思ってしまう。
ここには、かなり自然な親心があるのだと思います。
たぶん親は、子どもにただ特別であってほしいのではない。
そうではなくて、
この子が生きていくための何かを持っていてほしい
のだと思います。
何か一つでも、拠って立てるもの。
何か一つでも、自分を支えるもの。
何か一つでも、社会の中で埋もれすぎずにいられるもの。
そういう武器のようなものを、心のどこかで願っているのではないでしょうか。
それは、はっきり言葉にしていなくても、無意識にかなりある気がします。
親は、自分が見てきた現実を知っている。
普通にいるだけでは埋もれることもある。
真面目なだけでは報われないこともある。
生きていくのは、思ったよりずっと簡単ではない。
だからこそ逆に、
「この子には何かあってほしい」
と思う。
この願いの奥には、虚栄心というより、かなり切実な不安があるのだと思います。
親が期待する「武器」と、子を支える「真の強さ」のズレ
ここが難しいところです。
親は、子どもに何か一つ武器を持っていてほしいと思う。
それ自体はとても自然なことです。
でも、親が思う武器と、実際にその子を支えるものは、案外ズレることがあります。
親はつい、わかりやすいものを武器だと考えやすい。
目立つ才能。
他の子より秀でたもの。
社会で通用しそうなスキル。
人に説明しやすい強み。
もちろん、そういうものがその子を支える場合もあるでしょう。
でも実際には、もっと地味なものが、その子の人生を支えることもあります。
すぐに立ち直れなくても、少し時間がたてば戻ってこられること。
人と完全に切れずにいられること。
嫌なことがあっても、ゼロからまた始められること。
自分のペースを崩しすぎないこと。
助けを求めることができること。
地味でも続けられること。
そういうものも、生きていくうえではかなり強い。
けれど親は、ときどきそれを個性や武器として見落としやすいのかもしれません。
この子には何が向いているか。
この子は何を持っているか。
そう考えることは悪くありません。
でも、親が見つけたいものばかりを探していると、その子を本当に支えるものを見逃すことがある。
そこは少し気をつけていたいところです。
個性とは「きれいな長所」だけを指す言葉ではない
個性という言葉は、どうしても明るい意味で使われやすいと思います。
個性的。
その子らしい。
ユニーク。
魅力的。
もちろん、そういう意味で使うことも多いでしょう。
整えきれない「扱いにくさ」に、親がどう付き合うか
でも実際には、個性はそんなにきれいなものだけではありません。
扱いにくさもある。
偏りもある。
人と噛み合いにくいところもある。
妙なこだわりもある。
周囲から見ると「面倒」に見えるものもある。
でも、それがその子からどうしても消えないものであるなら、それもまた個性なのかもしれません。
ここは、親にとって少し難しいところです。
子どもの個性は、良いところとしてなら受け入れやすい。
でも、扱いにくさを含んだまま受け止めるのは、かなり根気がいります。
それでも、個性を本当に大事にするとしたら、きれいな部分だけを選んで「これがあなたらしさ」と言うことではないのでしょう。
その子にずっと残るもの。
こちらの思い通りに整えきれないもの。
良い面も、扱いにくい面も含めて、その子からにじみ出てくるもの。
そういうものに対して、親がどう付き合うか。
そこに、個性という言葉の本当の難しさがあるのかもしれません。
親の役目は、個性を演出することではない
ここまで考えてくると、親の役目も少し見えてきます。
親は、個性を無理に作らなくていい。
早く見つけなくてもいい。
何か特別なものに仕立てなくてもいい。
むしろ、その子がその子である限り、にじみ出てくるものは、どこかで出てくる。
どうしても残るものは、いずれ見えてくる。
大事なのは、それを焦って証明しようとしないことなのだと思います。
親が「この子の個性はこれだ」と早く決めすぎると、その子を固定しやすくなる。
逆に、「まだ見えていないものもある」と思っていたほうが、その子を広く見ていけることもある。
親の役目は、個性を演出することではなく、平凡な日々の中で、どうしてもにじみ出てしまうものを見ていくことなのかもしれません。
それは少し地味です。
派手な教育論にはなりにくい。
でも、ずっと自然です。
ごくごく平凡を、普通に受け入れる。
そのうえで、平凡な生活の中でもなお出てきてしまうその子らしさを見ていく。
そのくらいの距離感のほうが、親のOSも無理に暴走しにくいのだと思います。
おわりに:平凡であることと、個性を大事にすることは矛盾しない
「個性を大事に」という言葉は、やさしく聞こえます。
でもそのやさしさの中には、ときどき焦りも混ざります。
何かを早く見つけなければいけない。
その子らしい武器を用意しなければいけない。
平凡なままでは不安だ。
そういう気持ちが、少しずつ入り込むこともある。
けれど、個性とは、そんなに急いで見つけるものではないのかもしれません。
守らなければ消えてしまうものでも、演出しなければ見えないものでもないのかもしれません。
その子がその子である限り、どこかで出てきてしまうもの。
平凡な毎日の中でも、どうしても残ってしまうもの。
そういうものとして見たほうが、個性という言葉は、もう少し自然になる気がします。
平凡をそのまま受け入れることと、個性を大事にすることは、ほんとうは矛盾していないのかもしれません。
【編集後記:操作することをやめ、ただ『横にいる』という覚悟】
個性とは、誰かに認められるために「作るもの」ではありません。
むしろ、評価や期待という外圧を脱ぎ捨てたとき、内側から勝手ににじみ出てしまう「生命の横顔」そのものです。
親が子にできる最大の贈り物は、そのにじみ出る個性をコントロールすることではなく、ただ「勇気づける」ことではないでしょうか。
野田俊作氏の『勇気づけの方法』は、私たちが無意識に行っている「褒めて操る」という教育の欺瞞を、鮮やかに暴いてくれます。
「褒める」ことで子どもを動かすのではなく、「共感」することで困難に立ち向かう力を引き出す。
その静かなOSの書き換えが、子どもの中に眠る『自分の人生を生きる勇気』を呼び覚まします。
あなたが親という役割を演じるのをやめ、不完全な一人の人間として隣に座る。
その「にじみ出る背中」こそが、子どもが自分を信じて歩き出すための、最高の教科書になるはずです。
[PR] 支配を手放し、信じて見守る。:【勇気づけの方法】自立のための子育て
子育てに際して、いろいろな角度から、親のOSというレンズを通して記事を書いています。
ぜひ最初から読んでみてください。
Re:Trader ─ トレードからはじまる行動と心理のノートをもっと見る
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