子育ては、親から多くのものを持っていきます。

時間も、余裕も、体力も、かなり使います。

けれど、それだけで終わるものでは、もちろんありません。

親の側にも、返ってくるものがある。

今回は、そのことを静かに考えてみたいと思います。

やりがい、貢献感、時間感覚の変化、自分の外側に関わる感覚。

子育てが親に返してくるものは、派手な成功や美しい答えではなく、誰かと長く関わった時間の中で少しずつ積もっていく、静かな手ごたえなのかもしれません。

子育ては、どうしても「大変なもの」として語られやすいと思います。

時間がなくなる。

お金もかかる。

自由も減る。

思い通りにいかないことが増える。

心配ごとも、確実に増える。

それはたしかにそうなのだと思います。

実際、子育てはきれいごとだけでは回りません。

毎日はかなり具体的で、かなり現実的で、容赦なく進んでいきます。

だから、子育てのしんどさを薄めて語るつもりはありません。

ただ、その一方で、前から少し思っていたことがあります。

子育ては、親から多くのものを持っていきます。

時間も、余裕も、体力も、かなり使います。

けれど、それだけで終わるものでは、もちろんありません。

親の側にも、返ってくるものがある。

今回は、そのことを少し考えてみたいと思います。

もちろん、ここで安易に

「子育ては素晴らしい」

とか、

「子育ては親を成長させる」

とか言ってしまうと、少し雑になる気がしています。

たぶんそういう話ではない。

もっと静かで、もっと地味で、でも案外深いかたちで、子育ては親にも何かを返しているのではないか。

今回は、そのことを少し考えてみたいと思います。

子育てが親のOSに返す、静かで深い「貢献感」

子育ての中で親がしていることは、細かく見るとかなり地味です。

起こす。

食べさせる。

片づける。

送る。

聞く。

待つ。

心配する。

また次の日も、似たようなことをする。

どれも一つひとつは、派手ではありません。

成果として見えやすいわけでもありません。

でも、その積み重ねの中には、

「自分はこの子の生活を支えている」

という感覚が、確かに含まれているのだと思います。

誰かが眠れるようにする。

誰かが学校へ行けるようにする。

誰かが安心して帰ってこられる場所を作る。

誰かが日々を回していけるように、細かく手を入れる。

そういうことは、消耗ではあるのですが、同時にかなり深い種類の手ごたえでもあるのではないでしょうか。

これは、子どもが感謝してくれるから、ということだけではありません。

むしろ、感謝される・されないを超えて、誰かの生活の土台に自分が関わっているという事実そのものが、親の側に何かを返してくる。

そういう面がある気がします。

第3回で触れたアドラーの言葉を借りるなら、これは共同体感覚の一部ともつながっているのだと思います。

自分がどこかに所属していること。

そして、自分が誰かや何かの役に立っているという感覚。

子育ての中には、その実感がかなり濃いかたちで含まれています。

誰かの役に立つ、という言い方をすると少し平板ですが、子育ての中にある「役に立っている感覚」は、案外大きいのではないかと思います。

しかもそれは、社会的に目立つ役割とは違います。

評価されやすいものでも、数字になりやすいものでもありません。

でも、だからこそ、静かに深い。

子育ては、親に負担だけを返すのではなく、

「自分は誰かのために動いている」

という感覚も返してくることがある。

まずは、そのことを大事に見ておきたいと思います。

効率化の時代に、子育てが「時間感覚」を書き換える

今の社会は、すぐ結果を求めやすいと思います。

効率。

成果。

即効性。

短い時間で、何が変わったか。

そういう見方は、もうかなり自然なものになっています。

ある意味では、日々の小さな変動にすぐ反応してしまうような時間感覚です。

けれど、子育ての時間は、どうしてもそれとは少し違います。

昨日と今日で、急に何かが完成するわけではありません。

今週頑張ったからといって、来週すぐに成果が見えるとも限りません。

むしろ、何も変わっていないように見える時間のほうが長いかもしれない。

それでも、少し長く見ていると、確かに変わっている。

いつの間にか話し方が変わっている。

いつの間にか顔つきが変わっている。

できなかったことが、ある日さりげなくできるようになっている。

子育ては、そういう時間の流れ方をしています。

そして親も、その時間に付き合っていくことになります。

待つこと。

すぐに結論を出さないこと。

短い成果だけで全部を判断しないこと。

少しずつ積み重なっていく変化を見ること。

こういう感覚は、子育てを通じて親の側にも生まれてくるのではないかと思います。

これは「親も成長する」という大きな言葉でまとめると、少し安くなる気がします。

そうではなくて、もっと単純に、親の時間感覚が変わるのだと思うのです。

早く答えを出そうとしすぎない。

いま目に見える結果だけで決めつけすぎない。

もう少し長い時間で人を見る。

短い変動に振り回されるのではなく、長い時間の中で少しずつ育っていくものを見る。

子育ては、親に忍耐を教えるというより、時間の流れ方そのものを少し書き換えるのかもしれません。

自分の外側へ向かう「回路」──エゴを脱ぎ、他者と関わる

人は放っておくと、どうしても自分の都合の中で生きやすいものだと思います。

自分の予定。

自分の気分。

自分の効率。

自分の疲れ。

自分のリズム。

もちろん、それ自体は悪いことではありません。

誰だって、自分の生活を守りながら生きています。

ただ、子育てをしていると、良くも悪くもそれだけでは回らなくなります。

自分の都合だけでは決められない。

自分のペースだけでは進められない。

常にもう一人、もう一つの生活があり、もう一つの感情があり、もう一つの時間がある。

これは大変なことでもあります。

正直、疲れることも多い。

でもその一方で、子育ては親を、自分の外側に関わり続ける存在にもしていくのだと思います。

自分以外の誰かの機嫌や体調や不安や成長に、長く付き合う。

そのことは、親を立派にするとは限らないけれど、自分だけに閉じない回路を持たせることはあるのではないでしょうか。

言い換えれば、子どもという、自分には完全にはコントロールできない存在を受け入れながら生きることで、親のOS自体が少しずつ拡張されていく面があるのかもしれません。

自分の思い通りに動かない。

予定通りにもならない。

それでも関わり続ける。

その経験は、親の側に、自分だけでは閉じない別の回路を作っていくように思います。

子育ては、親に何か完成された人格を与えるわけではない。

ただ、親を少しだけ、自分の外側へ向かわせ続ける。

そこには、案外大きな意味があるのかもしれません。

【知的な補助線】人間にとって「手がかかる」ことの進化的な意味

少しだけ、知的な補助線を入れてみたいと思います。

人間の子どもは、かなり手がかかります。

長く未熟で、長く守られ、長く関わりを必要とする。

生き物として見ると、これはかなり特徴的なことなのだと思います。

もちろん、だから人間の子育ては尊いのだ、と単純に言いたいわけではありません。

ただ、進化の長い時間の中で見たときに、この「手がかかる」という事実そのものが、親や周囲の大人たちに、長い関与や観察や協力を求めてきたのだろうとは思います。

すぐに結果が出ない相手に付き合うこと。

少しずつ変化する存在を見続けること。

誰かの成長を、短い成果ではなく長い時間で支えること。

そういう営みの中で、人間はただ子どもを育ててきただけでなく、大人の側にも別の種類の役割感覚や関わりの深さを育ててきたのかもしれません。

少なくとも、子育ての「手がかかる」という性質は、ただの負担としてだけ理解すると少し足りない気がします。

その手間の中でしか生まれない関わり方がある。

その長さの中でしか育たない感覚がある。

そういうものを、人間はかなり長い時間をかけて持ってきたのではないか。

そんなふうにも思います。

警告:子どもを「意味の供給源」にしてはいけない

ここは、大事なところです。

子育てが親に何かを返してくることはある。

私はそう思います。

けれど、その「返ってくるもの」を前に出しすぎると、話は少し危うくなります。

たとえば、子どもを

  • 生きがいの供給源
  • 自分を満たしてくれる存在
  • 自己実現の道具

のように見始めてしまうと、親のOSはまた別の形で暴走しやすくなります。

子どもは、親を満たすために存在しているわけではありません。

親に意味を返すために生きているわけでもない。

返ってくるものがあることと、返ってくることを期待して子どもを抱え込むことは、まったく別です。

子育てが親に何かを返してくることはある。

けれど、その返りを目的にし始めた瞬間、子どもは「一人の人」ではなく、親を満たす装置に近づいてしまう。

そこは、ちゃんと線を引いておいたほうがいいのだと思います。

だからこの話は、

「子どもがいると人生が満たされる」

というような単純な話ではありません。

むしろ、子どもを一人の人として尊重しながら関わっていく中で、結果として親にも何かが残ることがある。

そのくらいの順番で考えるのが自然なのだと思います。

残るのは成功の勲章ではなく「関わりの蓄積」

子育てが親に返してくるものを考えたとき、つい「うまく育った」「いい子に育った」「成果が出た」といった話に寄せたくなることがあります。

でも、本当に親に残るものは、そこだけではないように思います。

むしろ、

長く関わったこと。

日々を一緒に回したこと。

少しずつ変わる相手に付き合ったこと。

親自身も揺れながら、それでも関わり続けたこと。

そういう時間の蓄積そのものが、親の側に静かに残っていくのではないでしょうか。

それは勲章のようなものではありません。

誰かに見せる成果でもありません。

きれいに言葉にできるものでもないかもしれない。

でも、確かに残る。

生活の中に沈んで、少しずつ親の内側に積もっていく。

子育てが親に返してくるものは、立派な答えではなく、誰かと長く関わった時間の重みなのかもしれません。

おわりに:子育ては、親の中に「別の手ごたえ」を残していく

子育ては、親から多くのものを奪います。

時間も、余裕も、自由も、かなり削られる。

それは事実だと思います。

けれど同時に、親の側にも、何かが返ってきている。

それもまた、たしかなのではないでしょうか。

それは、「親も成長する」というようなきれいな話ではないのかもしれません。

もっと地味で、もっと言葉にしにくいものです。

貢献感かもしれない。

時間感覚の変化かもしれない。

自分の外側に関わる感覚かもしれない。

誰かと長く関わったことの重みかもしれない。

隣で寝ている子ども。

散らかった部屋。

今日も思い通りに進まなかった一日。

そういうものを見たときに、ただ「大変だった」で終わらず、

これも何かの蓄積なのかもしれないと、少しだけ現実を肯定できる瞬間があるなら、それは悪くないことだと思います。

子育ては、親に何かを完成させるというより、親の中に少しずつ別の手ごたえを残していく営みなのだと思います。


【編集後記:注いだ時間は、やがて『愛着』という糧になる】

子育てが親に返してくれるもの。
それは、正解のない日々と向き合い、誰かのために手を尽くしたという、揺るぎない「時間の記憶」ではないでしょうか。
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親のOSについて、シリーズ的に書いています。第1回から読んでみてください。


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