子供の頃の記憶というのは、不思議なものです。
昨日の夕食は思い出せないのに、
何十年も前の、取るに足らないような場面だけは、妙に鮮明だったりします。
教室の匂い。 夕方の光の色。
誰かに言われた、たった一言。
特別な出来事だったわけでもありませんし、
人生を左右した決定的な瞬間というほどでもありません。
それでも、その場面だけが、
いまも頭の奥に残っていることがあります。
おそらく、多くの方が同じような経験をお持ちではないでしょうか。
子供時代の記憶は「大切だから残った」わけではありません
この現象について、私たちはよく
「子供の頃は感受性が豊かだから」
「初めての体験が多いから」
と説明します。
もちろん、それも間違いではありません。
ただ、もう少し違った見方もできそうです。
子供時代の記憶は、
大切に保存されたから残っているのではありません。
消されなかったから残っているのです。
この違いは、思っている以上に大きいものです。
脳は、記憶を大切に扱う装置ではありません
私たちはつい、
脳は「記憶を集め、保存する装置」だと考えてしまいがちです。
しかし実際の脳は、かなり大ざっぱです。
覚えることよりも、
忘れることのほうが得意と言ってもよいでしょう。
使われない記憶は薄れていき、
似た体験は上書きされ、
ときには都合よく書き換えられます。
脳は、正確な記録係ではありません。
生き延びるための、省エネルギー装置です。
子供時代は「世界の取扱説明書」を作る時期です
では、なぜ子供時代の記憶は消えにくいのでしょうか。
それは、この時期の脳が
「世界はどういう場所なのか」を必死に学んでいるからだと考えられます。
人は怒る。
声が大きいと怖い。
この空気は安心できる。
この距離感は危険だ。
子供は、まだ世界のことをよく知りません。
そのため、一つひとつの体験が
世界モデルを作るための材料になります。
この時期の記憶は、
単なる思い出ではありません。
「世界とは、こういうものらしい」
という初期設定のような役割を果たしています。
初期設定は、あとから修正されにくいため、
結果として長く残りやすいのです。
記憶は「賢くなるため」に進化したものではありません
ここで、少し視点をずらしてみます。
記憶という仕組みは、
人を賢くするために進化したのでしょうか。
どうやら、そうではなさそうです。
記憶の本質的な役割は、
考えなくて済むようにすることにあります。
毎回ゼロから判断するのは、
脳にとってあまりにも負担が大きい行為です。
そのため脳は、
「前もこうだったから、今回もたぶんこうだろう」
という近道を選びます。
記憶は、思考のショートカットです。
正確さよりも、速さが優先されてきました。
残っている記憶は「役に立った記憶」です
子供時代の記憶が残るのは、
それが人生において特別に重要だったからではありません。
感情が強く動いたこと。
判断に使われたこと。
何度も思い返されたこと。
そうした記憶が、
たまたま上書きされずに残っているに過ぎません。
言い方を変えるなら、
消す理由がなかったログのようなものです。
人間は、記憶をあまり信用していませんでした
実は人間は、かなり早い段階で
「記憶はあてにならない」ということに気づいています。
だからこそ、
壁に描き、
石に刻み、
結び目を作り、
書き残してきました。
これらは、記憶力を高めるための工夫ではありません。
記憶に頼らなくて済むようにするための工夫です。
脳は怠け者です。
できることなら、覚えずに済ませたいのです。
子供時代の記憶が教えてくれること
子供の頃の記憶が残っている理由は、
感傷的なものではありません。
それは、人間がもともと
「覚える生き物」ではなく、
「参照しながら生きる生き物」だった
という痕跡でもあります。
記憶は主役ではありません。
脳を楽にするための道具にすぎません。
ここまで考えてくると、
一つの疑問が自然と浮かんできます。
もし人間が
「覚えること」よりも
「戻れること」を進化させてきたのだとしたら。
書くこと、残すこと、参照することは、
いったい何のために発達してきたのでしょうか。
この続きは、次の記事で扱いたいと思います。

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