アクセスできる人という新しい「知のかたち」
いま、私たちは“知っている人”ではなく“アクセスできる人”になっています。
スマホを取り出せば、検索でもAIでも、ほとんどの答えは数秒で手に入ります。けれど、それは本当に「知っている」ことと言えるでしょうか。
知っているとは、本来「自分の言葉で説明できる」ことだと思います。
なぜそうなのかを語り、他者に伝えられる力。
それが理解であり、知識の本体です。
なんでも結構です。
身の回りにある様々のものやことの仕組みを詳しく説明することができるでしょうか。
たとえば、水道の仕組みを説明できますか。
蛇口をひねれば水が出る――その裏でどんな工程があるのか。
どこから水が来て、どのように圧力がかかり、どうやって止まるのか。
知っているようで、いざ説明しようとすると言葉が出てこない。
冷蔵庫の冷える仕組み、スマートフォンが電波を拾う原理、
目の前の照明がどんな経路で電気を得ているのか。

私たちは驚くほど多くのことを「知っているつもり」で通り過ぎています。
しかし現代では、知識が“記憶”から“接続”へと移りつつあります。
自分の頭に入れておくよりも、ネットのどこに答えがあるかを知っている方が効率的になってしまいました。
その便利さの裏で、私たちは思考の筋肉を少しずつ失っているのかもしれません。
検索やAIが代わりに考えてくれるうちに、「知っているつもり」だけが増えていくのです。
本当に知っているかどうかを確かめるには、たったひとつの方法があります。
自分の言葉で語れるかどうか。
それが、情報社会で静かに問われ続けている“知のテスト”なのだと思います。
