「合理的な人間」という幻想を疑った日──カーネマンとトヴェルスキーが見た“思考のほころび”
1. 1960年代、心理学の片隅で
1960年代のイスラエル。
若き心理学者ダニエル・カーネマンは、当時まだ無名の大学教授でした。
第二次世界大戦後の社会は、「人間は理性的に行動する」という経済学の大前提を信じて疑っていません。
その世界では、感情や誤りは“ノイズ”でしかなく、経済モデルに組み込まれることはありませんでした。
しかし、カーネマンは学生の頃から直感的に感じていました。
「人間はそんなに整然と動かない」――と。
彼の関心は、知覚や判断の“錯覚”にありました。
目が騙されるように、思考もまた騙されるのではないか。
この問いが、のちに行動経済学を生む最初の種になります。
2. トヴェルスキーとの出会い
ある日、研究仲間のひとりが紹介したのが、アモス・トヴェルスキー。
軍での経験を経た、快活で論理的な心理学者でした。
ふたりは出会ってすぐに意気投合します。
トヴェルスキーは鋭い理性を持ち、カーネマンは観察と洞察に長けていた。
まるで異なるタイプの頭脳が、ひとつのテーマに出会った瞬間でした。
彼らを結びつけたのは、「人間の判断は、本当に合理的なのか?」という共通の疑問でした。
3. “ヒューリスティック”の発見
ふたりは実験を始めました。
参加者に確率や統計の問題を出し、その答え方を記録する。
驚いたのは、教育レベルの高い被験者たちでさえ、理論的には誤った判断を繰り返すということでした。
人間は論理ではなく、**経験則(ヒューリスティック)**によって即断してしまう。
たとえば「代表性ヒューリスティック」――
コインを投げて「表・表・表・裏・表」と出たあとに「次も裏が出そう」と思うあの感覚。
確率的には独立しているはずなのに、私たちは“流れ”を感じ取ってしまう。
この小さな実験室での発見が、のちに世界の経済学の根幹を揺るがせることになります。
4. 経済学への“侵入”
当時、経済学はミクロ理論の黄金時代。
人間は合理的に行動し、最大の利益を求める――この「ホモ・エコノミカス」像が絶対のルールでした。
その世界に、「人間はしょっちゅう間違える」と言い出す心理学者が現れたのです。
学界の反応は冷ややかでした。
論文は経済誌に通らず、心理学界からも「応用性が乏しい」と言われた。
それでも、カーネマンとトヴェルスキーはデータを積み上げていきました。
「ヒューリスティックとバイアス」という論文シリーズを次々に発表し、
1974年、ついに『サイエンス』誌に掲載されます。
このとき初めて、「人間は合理的ではない」という主張が、科学として認められた瞬間でした。
5. “期待効用理論”の修正へ
1980年代初頭、ふたりはさらに一歩踏み込みます。
人が損失を避け、利益よりも痛みに敏感であることを示す「プロスペクト理論」を発表。
「損をしたくない」という感情が、計算よりも行動を強く支配する――
この理論が、従来の「効用最大化モデル」を根底から書き換えました。
プロスペクト理論は、行動経済学の礎石となり、
やがてカーネマンにノーベル経済学賞をもたらします。
トヴェルスキーはその受賞を見届ける前に亡くなりましたが、
カーネマンはこう語っています。
「あの発見のすべては、アモスと私が交わした対話の中にあった」
6. 人間という未完成な存在
彼らが見つけたのは、人間の“欠陥”ではありません。
むしろそれは、古代の脳が残した知恵の名残でした。
私たちは、20万年前に設計された意思決定の回路で、いまだに世界を解釈しています。
行動経済学とは、非合理な行動の学問ではなく、
「なぜその非合理が生まれたのか」を解き明かす人間学でもあるのです。
まとめ
カーネマンとトヴェルスキーが出会ったあの小さな研究室から、
“合理性”という人間観の神話は静かに崩れはじめました。
人間は完璧ではない。
けれど、誤りの中にこそ生存の知恵がある。
その気づきが、行動経済学という新しい地図を生み出しました。
