冬眠という知恵──クマから学ぶ、静けさの季節
クマの被害、いわゆる「熊害(ゆうがい)」が日本中を騒がせています。
住宅地にまで現れる個体、登山道での遭遇、農作物の被害──その背景には、環境の変化と、人間・熊双方の生活圏の重なりがあります。
山の木の実が減り、人里に餌がある。人間が山を管理できなくなり、熊が山を管理するようになった。そんな皮肉な構図さえ生まれつつあります。
人間の心のどこかには、「冬になってくれれば」「熊が冬眠してくれれば」という願いがあるでしょう。
寒さとともに、彼らが静かに山の奥へと戻り、春まで眠ってくれることを望む──それは恐怖からの解放であり、同時に“季節という秩序”への回帰を願う気持ちでもあります。
では、そもそも「冬眠」とは何なのでしょうか。
クマはなぜ眠るのか。なぜ眠らない年があるのか。
そして、冬眠は本当に“冬”だけのものなのか。
クマの冬眠──眠るかどうかは“環境次第”
私たちが想像する「冬眠」は、深い眠りのように見えますが、クマの場合、それほど単純ではありません。
クマの冬眠は、体温を数度下げ、心拍数や代謝を落としながらも、外敵や物音に反応できる“浅い眠り”です。
つまり完全な冬眠(deep hibernation)ではなく、休眠(torpor)に近い状態。
本能的なプログラムではありますが、実際には環境条件によって発動される柔軟な行動なのです。
冬に雪が深く積もり、食べ物がほとんど得られない地域では、クマは洞穴にこもり、脂肪を燃やして冬を越します。
一方、温暖な地域や、冬でも餌が豊富にある場所では、冬眠せずに活動を続ける個体も確認されています。
つまり冬眠は“決まった儀式”ではなく、生きるための選択肢のひとつなのです。
クマの“夏眠”──生存本能の延長線上にある仮説
興味深い話として、「クマは生命活動のリスクを感じると、夏でも休眠に近い状態になることがある」という説があります。
これは“夏眠(かみん)”と呼ばれる現象で、乾燥や高温、餌の枯渇などによって動物が代謝を落とす行動を指します。
カタツムリ、両生類、魚類などで確認されていますが、クマの場合はまだ確たる証拠がないとされています。
ただし、極端な環境──猛暑や飢餓、森林火災の影響などによって、一時的に洞穴や日陰で活動を止める行動は報告されています。
それを「夏眠」と呼ぶかどうかは議論の余地がありますが、エネルギーを守るために動きを止めるという原理は、冬眠と同じ根っこにある。
もし今後、気候変動が進み、夏のストレスが冬の寒さに匹敵するほどになれば、
クマが“夏眠”をとる未来も、まったくの空想ではないかもしれません。
他の生物に見る“冬眠の知恵”
冬眠はクマに限った行動ではありません。
リスやヤマネ、ハリネズミなどの小動物は、体温を極端に下げ、心拍や呼吸を限界まで抑えて冬を越します。
それは、命を細い糸のようにつなぎながら、季節をやり過ごす究極の節約術です。
爬虫類や両生類は“変温動物”で、自ら体温をコントロールできません。
気温が下がると活動が止まり、自然に“冬ごもり”に入ります。
これは意思ではなく、構造上の制約による「強制的な休眠」。
それでも結果的には、彼らもまた、自然のリズムに身を委ねているのです。
植物の世界にも「冬眠」に相当する仕組みがあります。
落葉樹は光合成を止め、根の奥で春を待つ。
種子は発芽せず、寒さを経てから目覚める。
冬眠とは、生物全体に共通する“季節との契約”のようなものなのです。
霊長類と“冬眠の記憶”
ここで視点を変えてみましょう。
では、人間──あるいは霊長類の仲間たちは、進化のどこかで冬眠していたことがあるのでしょうか?
その答えは、「完全には否定できない」です。
最近の研究では、私たち人間にも冬眠動物と共通する代謝制御遺伝子(UCP1など)が存在することが分かっています。
つまり、冬眠の基礎となる遺伝子装置を“眠らせたまま保持している”可能性があるのです。
さらに興味深いのは、2020年にスペインで見つかった約40万年前のホモ属の骨。
骨の成長層に、冬のあいだ成長が止まっていたような季節的停止の痕跡が残っていました。
研究チームはこれを「冬眠的な代謝低下=torpor状態の証拠」ではないかと発表しています。
つまり、氷期のヨーロッパで祖先的ヒトが、極寒と飢えをしのぐために“疑似冬眠”をしていた可能性があるのです。
もちろん、これはまだ仮説段階で、病気や栄養不良の痕だとする反論もあります。
けれども、「人類にも休眠の能力があったかもしれない」という見方は、単なるSFではなく、科学的に検討され始めています。
冬眠するサルたち──進化の残響
実際、現生の霊長類の中にも“冬眠する”仲間がいます。
マダガスカルのキツネザル(dwarf lemur)は、乾季や寒期に数か月間、木の洞で体温を下げて眠り続けます。
つまり、霊長類としての冬眠能力は、完全には失われていないのです。
私たちヒトも同じ霊長類。
その遺伝的基盤を共有している以上、「進化のどこかで休むことを選んだ種」だった可能性は高い。
今も私たちが冬になると活動が鈍り、眠気が強くなるのは、その名残かもしれません。
冬眠しない世界──気候変動とリズムの崩壊
近年、地球温暖化の影響で、冬眠のリズムが乱れつつあります。
雪が降らず、餌が尽きないために冬眠に入らないクマが増えています。
また、早く春が来ることで冬眠からの覚醒も早まり、餌とのタイミングがずれてしまうケースもある。
それは、自然のリズム全体が少しずつ狂い始めているということです。
もしも冬がなくなれば──クマは一年中活動し続けるでしょう。
その結果、人間の生活圏との接触はさらに増え、熊害は深刻化します。
冬眠は単なる休息ではなく、生態系全体の調和を保つ装置でもあったのです。
人間の中に残る“休む知恵”
人間には生理的な冬眠はありませんが、心や社会の中にはそれに似た「休眠期」があります。
焦って動かず、いったん立ち止まり、考えを深める時期。
それを怠けと捉えるか、静かな準備期間と捉えるかで、人生のリズムは大きく変わります。
冬眠とは、動かないことを恐れない知恵。
それは、環境に抗わず、生き延びるために休む勇気です。
クマたちが教えてくれるのは、「眠ることを忘れた生き物」への小さな警鐘かもしれません。
結びに
「熊が冬眠してくれれば」と願う私たちは、もしかすると、自分たちの中の“冬眠のリズム”を取り戻したいのかもしれません。
活動と休息、喧騒と静寂、外界と内省。
自然界が繰り返すこのサイクルは、私たち人間にとっても、生き方の羅針盤になり得るのです。
noteにも記事を書いています。ぜひ読んでみてください。
